『ヒップホップ・ジェネレーション[新装版]』インタビュー
宇多丸が語る、名著『ヒップホップ・ジェネレーション』をいまこそ読むべき理由(後編)
宇多丸「日本は世界的に見てもかなり早い段階でヒップホップを始めていた」
磯部:日本のラップ・ミュージックの歴史と言えば、本書には、83年10月、プロモーションのために来日した『ワイルド・スタイル』のメンバーが、竹の子族やローラー族がひしめく代々木公園でパフォーマンスを行う姿が、まるで、未開の地を訪れた文明人のように描かれていますね。チャーリー・エーハーン曰く、「僕たちのグループは、公園にいた皆の理解の範疇を超えていたんだ」「三日もしないうちに、公園でDJをやる人たちが現れた。グラフィティの真似事も始まっていたよ。僕たちが帰国する頃には、かなり盛り上がっていたな」と。
宇多丸:3日というのはかなり誇張だとは思うけれど(笑)。でも、DJ KRUSHさんとかに話を聞く限り、日本は世界的に見てもかなり早い段階でヒップホップを始めていたらしいね。『ワイルド・スタイル』のメンバーは『笑っていいとも!』とかにも出演したから、広まるのも早かったのかもしれない。
磯部:「ピテカントロプス・エレクトス」みたいな最先端のクラブでイベントをやった一方で、池袋西武百貨店の催し会場で行われた「ニューヨーク・ニューヨーク・フェア」なんかでもパフォーマンスをしてましたからね。KRUSHさんは後者を観たっていう。ちなみに、KRUSHさんも参加している、宇多丸さんが司会を務めた日本のオールド・スクールについての座談会をまとめた書籍『JAPANESE HIP-HOP HISTORY』(千早書房刊、98年)では、日本のBボーイングの第一人者であるCRAZY-Aさんが、当時、『ワイルド・スタイル』のメンバーの来日を知らなかった上に、同映画が公開される以前、既に原宿の歩行者天国でBボーイングをしていたと語っています。
また、『Red Bull BC One 2010 - Bronx to Tokyo - Breaking the Divide 』( https://www.youtube.com/watch?v=FoC5dwYpwjU )という、日本のBボーイ・シーンにおける『ワイルド・スタイル』の影響についてのドキュメンタリーでも、CRAZY-Aさんは「『ワイルド・スタイル』が入って来て、始まったね。Bボーイングはもう分かってて、その後、『ワイルド・スタイル』を観た時に、ヒップホップの全貌が見えたというか。90%ぐらい『ワイルド・スタイル』じゃないかね、ヒップホップの始まりはね」と、同作品へリスペクトを表明しつつも、暗に、それ以前から日本にBボーイングはあったんだと、チャーリー・エーハンの発言に対する反論ともとれるようなことを言っていますね。
宇多丸:もうタッチの差かもしれないけれど、『フラッシュダンス』(エイドリアン・ライン)は83年の7月日本公開だから、それを観てブレイクダンスを始めた人たちは、先にやっていたことになるよね。オレの感覚でも、最初にブレイクダンスの存在を知ったのは『フラッシュダンス』だったし、それ以前からロックダンスみたいなストリートダンスはあったわけだし、その流れを汲んでいたダンサーから見たら、『ワイルド・スタイル』以降のムーブメントにはタイムラグを感じるのかもしれない。
磯部:もちろん、最初に言ったように、『ワイルド・スタイル』とそのプロモーションが日本のヒップホップに与えた影響は大きいわけです……そういえば、最近、ようやく、日本公開当時に発売された、同映画のカセット・ブックを手に入れたんですよ。そのブックレットを読んでいて面白かったのが、日本におけるプロモーションを担当した葛井克亮さんが訳した、チャーリー・エーハンのコメントが、まるで日本語ラップのプロトタイプみたいで。「DJするなら最高さ/ビートにノって、ロックしな/ロックのビートはダンスのビート/グラフィティアートの字体は踊る/皆んな自由なスタイルをもつんだ/ワイルド・スタイル」っていう(笑)。
宇多丸:葛井さん自身、謎が多い人だよね。
磯部:葛井さんは『人間の証明』(佐藤純彌、77年)の助監督としてニューヨークへ渡って、サウス・ブロンクスも訪れているんですよね。「周りのアパートから朝から晩まで卵をぶっかけられながら撮影していて、非常に危険なイメージがあったので、二度と行きたくない、と思っていた」(http://www.webdice.jp/dice/detail/4674/)そうです。それが、82年にマンハッタンで行われていた、MOMA主催の新人監督映画祭<ニュー・ディレクターズ/ニュー・フィルムス・フェスティヴァル>で『ワイルド・スタイル』を観て、同地からヒップホップという文化が生まれたことを知り、衝撃を受けてその場で日本での公開を決める。
宇多丸:ああ、そうか! たしかに、『人間の証明』には瓦礫だらけのニューヨークが出てくるよね。なんで今まで気付かなかったんだろう。まさか、角川映画とヒップホップ黎明期がつながるとは!(笑) それから10年近くを経て、84年5月にリリースされた佐野元春さんの 『VISITORS』で、ようやく日本語ラップが顕在化すると。
磯部:ただ、佐野さんは当時のインタヴューで、「僕は自分では、ラップだとは思っていないんです。これまでの自分の曲の延長上のある部分を拡大したものだと思ってるんです。もちろん、ラップにインスパイアされた部分はあるけれど、僕には、ラップはできない。ラップ・ミュージックは、それを生み出した彼ら独自のものだと思うし、彼らを尊敬していますけれど。例えば、『COMPLICATION SHAKEDOWN』(『VISITORS』収録曲)は、ラップではなくもっと違った何かなんだと思っています」(「宝島」84年7月号)というふうに、ラップに対する距離感について語っています。
宇多丸:やっぱり現地でヒップホップの現場に触れると、そういう気分になることはあるよね。それこそ、(高木)完ちゃんとかは、93年だかに「ロックステディパーク」(で行われたブロック・パーティ)に行って、決定的な距離を感じたって話してたよね。
磯部:いとうせいこうさんも、パブリック・エナミーの来日公演を観た際に思ったことを以下のように振り返っていますね。「僕らが近寄れる余地がないって感じた。ライブ中に彼らが“団結せよ!”って拳を挙げて扇動しててさ、そのときに僕も本当は拳を挙げたかったけど、彼らと僕らでは立場が違うから同調できなかった」「僕はもともと言葉の人間だから、そこで音楽をやめちゃうんだよな」(http://www.cinra.net/interview/2013/11/11/000000?page=2)。
宇多丸:当時のパブリック・エナミーを観てそうなるのはわかるけど。ただ、その直後にデ・ラ・ソウルが出てくるんだからさ。先日、ボーちゃん(スチャダラパー・BOSE)と対談(『SWITCH』Vol.34 No.11、特集「みんなのラップ」掲載、16年)したときに、デ・ラ・ソウルが登場したことで、日本のラッパーたちがどれだけ背中を押されたかって話をお互いしたんだよ。マッチョじゃなくていいんだ、最先端ラッパーだってそういうのに馴染めなかったりするんだって。ま、後にそれもひとつの演出だったってこともわかるんだけど。
磯部:それが、『高校生RAP選手権』の武道館大会にも出ていたT-PABLOWとYZERRの兄弟率いるBAD HOPに至ると、アメリカのハードなラップと全く距離を感じないんですから、日本のラップ・ミュージックの成熟という点でも、バックグラウンドとなる日本の社会の変化という点でも、感慨深くなります。