市川哲史の「すべての音楽はリスナーのもの」第32回

失われつつある「邦題ワールド」の愉悦 市川哲史が洋楽全盛期の名作・珍作を振り返る

 さて70年代のプログレこそ、そんなアカデミックかつストレンジな邦題の宝庫だったことに異を唱える者はいないだろう。というか邦題が似合う。もっと言えばア-ティスト本人以上に、作品を海よりも深く哲学的に好意的に解釈してしまう日本人プログレッシャー(=プログレ信者)だけに、気合いの入った妄想邦題が要求されるのだ。

 たとえばキング・クリムゾン1969年の第1号楽曲にしてプログレを代表する歴史的名曲「21st Century Schizoid Man」には、やはり「21世紀の精神異常者」という意味不明な邦題がやたら似合うのである。ところがレコ倫の自主規制とやらで、いつの間にか邦題が変更されていたのだ。

「21世紀のスキッツォイド・マン」。

ウルトラの星のゆるキャラか、超人トーナメント予選落ちか。やむ終えない仕儀なのだろうが、長年培ってきた世界観が木っ端微塵だ。ちょうどその頃――1996年に編成別ライヴ・ヴァージョン3種など、収録曲は「この曲×5」だけミニアルバム『SCHIZOID MAN』が英国でリリースされるに至り、私はどこかの雑誌で「21st Century Schizoid Man」の新邦題を勝手に命名した。

「21馬鹿」と。

当時、数多くのプログレッシャーの皆様の御賛同を得て、その後も実際に活用いただいていることは私の誉れである。わははは。

 今回、なぜ手垢にまみれた邦題話を書いてるのかというと、9月にリリースされたばかりのデヴィッド・ギルモア9年ぶりの新作が気に入らなかったことに端を発する。

 なんと《PINK FLOYD’S DAVID GILMOUR》やら《THE VOICE & GUITAR OF PINK FLOYD》といった広告の尊大すぎるコピーも嫌だが、カヴァーデザインが致命的にダサい。湖畔に広がる広大な草原に転がる鳥籠から黒い猛禽類たちが大挙して曇天に翔び立ってるのだが、安いCGと合成が感性と技量の貧しさを物語る。

 ピンク・フロイド作品の秀逸なアートデザインが英国のデザイナー集団〈ヒプノシス〉によるのは犬でも知ってるが、今回のデザインはオーブリー・パウエル。一応こいつもヒプノシスのカメラ担当ではあったが、アイディア担当の故ストーム・トーガソンとはレェェェェェェベルが違いすぎた。(※1)

 昨年末にリリースされたピンク・フロイド20年ぶりの〈ラストアルバムもどき〉『永遠(TOWA)』のデザインも、そういえばパウエルだった。雲海に漕ぎ出した一艘の小舟の図はもうどっかの葬儀屋の広告写真で、見る度に虚しくなる。南無。

 まあ『永遠』は故リック・ライト参加の93年録音のフロイド未発表音源集だったわけで、原題も『THE ENDLESS RIVER』だからこれでいいのだろうけども。となれば邦題は、『黄泉』でも『三途』でも『水葬』でも『賽(SAI)』でもよかったのではないか。

 と大人の対応をしてみたものの、ギルモアの新作『RATTLE THAT LOCK』の邦題は明らかに手抜きではないか。『飛翔』って見たままやないかい。

 これまでもギルモアの作品の邦題は、我々プログレッシャーをナメていた。2006年のライブDVD『REMENBER THAT NIGHT』は『覇響』、08年のオーケストラ共演ライヴCD『LIVE IN GDANSK』に至っては『狂気の祭典』ときたもんだ。まあ、思い起こせば1984年発表の2ndソロアルバム『ABOUT FACE』が『狂気のプロフィール』だったことを思えば、「狂気」繋がりできっといいのだろう――よくないよくない。

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