市川哲史の「すべての音楽はリスナーのもの」第31回

渋谷公会堂、一時閉鎖へカウントダウンーー市川哲史が綴る、名物ホールの歴史と裏話

 そういえば80年代日本のパンク/ニューウェイヴ・シーンを牽引したルースターズの解散ライブも、渋公だった。ブランキージェットシティの登場まで日本最強の轟音ストイシシズムを聴かせていたのに、『ロッキング・オンJAPAN』誌上でも盛りに盛り上げた解散ムーヴメントなのに、せっかくオリジナル・シンガーの<カリスマ@月の裏側>大江慎也が一夜限りで出戻ったのに、ファイナルなのに蓋を開けたら1500人強……。

 渋谷公会堂をナメてはいけない。

 青二才すぎて恥ずかしいが、「作品の良し悪しと集客力は別」という極めて基本的なことを、私は渋公に教えてもらった気がした。そして、「ポップ・ミュージックには良い意味でも悪い意味でもプラスαが必要なのだ」とも。

 私は渋谷公会堂が好きだった。

 実は音響的にも優れていて、1階後方の傾斜も絶妙で観やすい優秀なホールだ。ステージ上のミュージシャンと観客の絶妙な近距離感が、成長過程の国産ロックを育んだとも言える。でもって座席もNHKホール並みに座り心地がよかったりするから、徹夜明けの身にはほとんど悪魔の囁きのようなものだ。

 氷室京介がライブ中のMCで突然BOΦWY解散を表明した1987年12月24日は、会場に入れなかったファンたちが起こした暴動で正面玄関のガラスが割れる騒ぎが起きた。しかし某音専誌の編集長はこの<伝説の1224渋公ギグ>の際中、睡魔の誘惑に負けたばかりかその様子をプロダクション関係者が目撃。結果、翌日には会社間の厳重抗議行動事案にまで発展してしまった。渋公のなんと罪作りなことよ。

 当時は終演後、しがらみで中打ち(上げ)に顔を出して帰るのがライブの常というか、ほとんど義務づけられていた。その会場が渋公の場合は意外に広いリハーサル室で、隅っこに隠れて煙草を喫うのが私の憩いだった気がする。

 まあそれこそ多種多様なアーティストの中打ちを目撃してきたが、大抵の場合「節目」「目標」の渋公ライブを終えた達成感で高揚した、本人と関係者一同の笑顔が想い出される。そりゃそうだろう。

 たとえば1989年3月16日。メジャーデビュー直前のX初の渋公ライブ終演後の中打ちで、「今日は本当に……どうもありはとぉございまひた」と挨拶でひたすら泣き崩れる<半分ウニ頭>YOSHIKIもいい感じだが、「普通」を絵に描いたとしか思えない中年親父の「挨拶」という名の総括が異彩を放った。なぜただのおっさんがXの将来を語るのか、と。なお、正体はTOSHIの父であった。おいおい。

 ちなみにこの様子を、当時私が企画構成してたテレ朝日曜正午(失笑)のロック番組『HITS(←誰か憶えてる?)』で流したところ、司会の泉谷(しげる)さんがすっかり気に入ってしまい、その後執拗に「角まで立てたロッカーがめそめそ泣くな!」とギャグにし続けた。全然面白くないのに。

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