『Music Factory Tokyo』スペシャルインタビュー
「プロデューサーで聴くという文化がもっと根付いてほしい」小田桐ゆうきが目指す“筋の通った”作家とは?
「アーティストよりもアーティストらしい作家さんに憧れます」
――まずはどういうものをどんなやり方で作っていたのでしょうか。
小田桐:最初は大学のレポート用に持っていたノートパソコンと、友人からもらったRolandの「SC88」で打ち込んで、ダンスショー用の音源を作っていました。でもこの時の作品は楽曲と呼べるレベルではないと思います(笑)。
――ではそれが楽曲と呼べるようになったタイミングは?
小田桐:当時、自分も加入していた5人組のダンスチームがあったのですが、その5人でダンスボーカルユニットをやらないかという話になりまして。僕がメインボーカルを務めつつ、曲も打ち込みを少しかじっていた僕が制作することになりました。そこでパソコンを新調して、Tritonの「Triton rack」と、E-muの「mo'phatt」、「Cubase」を買い揃えました。楽曲制作の勉強は、『Sound & Recording Magazine』やそれに近い教材、あとは2000年代前半でジャパニーズR&Bが活発な時代だったこともあり、同じジャンルのCDを沢山聴きました。
――宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、MISIAなどが出てきていた時代ですね。そこからプロとしてデビューする2009年まではどう活動していたのでしょうか。
小田桐:所属していたダンスボーカルユニットは、結局4~5年活動した後に解散してしまって、30歳手前にして人生が宙ぶらりんになりました。年齢的にもアーティストは無理だなと思ったりしながら、1年間は引きこもりみたいな状態で……(笑)。でも、やっぱり音楽は捨てられなくて、ユニット時代に作った楽曲自体は評価していただいていたので、これを活かす仕事がしたいと決意して、作家の道を歩むことになっていくんです。そこから1年半ほどは打ち込みのスキルを上げるためにとにかく制作して、32~33歳のときに事務所にデモテープを送って、ひとつ前の事務所に所属しました。ここでプロとしてコンペに楽曲を出すようになって、半年で5~6曲が採用されました。
――小田桐さんの手掛ける楽曲は、スタンダードなポップスというより、原典と仰っていたジャパニーズR&Bの要素が大きく入っていて、良い意味で特化しているように感じます。
小田桐:もちろんアイドルを手掛ける際には一般的なポップスになることもありますが、まず自分が作り手である前に、リスナーであるという感覚がずっと残っているから、ルーツに沿った音楽が出来ると思うんです。昔からクレジットを見て「この曲はプロデューサーが誰々なんだ」とよく目を通すタイプで、その人ならではの色が出る方がすごく好きなんですよ。
――数名挙げるならどんな方々になりますか。
小田桐:T.KURAさんやNao'ymtさん、STYくんなどですね。やっぱり1本筋が通っていて、アーティストよりもアーティストらしい作家さんに憧れます。もちろん、アーティストによって色を変える方も良いと思うんですけど、個人的には貫きたいものがあるプロデュースワークに惹かれます。海外ではそういう方が多いですし、日本にもプロデューサーで曲を聴くという文化がもっと根付いてほしいと思いますね。