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磯部涼×中矢俊一郎「時事オト通信」第2回(後編)

日本語ラップとナショナリズム “不良映画”から読み解く思想の変化とは?

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藤原ヒロシ
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磯部「『日本人がラップをする意味とは何か?』という問い自体にあまり意味がなくなった」

中矢:なるほど。ところで、話題をラップに戻しますが、現在の日本のシーンを見渡してみると、あからさまにナショナリスティックなラッパーと言えるひとはあまりいないように思うんです。例えば、映画『サウダーヂ』(監督・富田克也、11年)では、田我流が右翼的なラッパーを演じていましたが、それもちょっと前のカリカチュアという気がしました。実際、田我流は、三宅洋平の応援演説に立ったり、アルバムのシークレット・トラックで加川良の反戦歌「教訓Ⅰ」をカヴァーするようなひとですし、むしろ、そのようなリベラルなタイプの方が主流のように思います。

磯部:00年代初頭には映画『凶気の桜』が描いたようなナショナリズムはサブ・カルチャーだったのが、13年に映画『永遠の0』が公開された頃には、第二次安倍内閣も発足して、すっかりメイン・カルチャーになっていたわけだけど、日本のラップはそこに乗らなかったということだよね。今や、右翼的なラッパーの代表と思われていたK-DUB SHINEが、日本共産党が推薦する宇都宮健児の都知事選・街宣イベントでマイクを握ったり(参照)、ネトウヨを批判する「物騒な発想(まだ斬る!!)」(参照)って曲をつくったりしているからね。とは言え、彼の立場は相変わらず反米保守で、ただ、3.11以降、反原発や反レイシズムといったイシューで左翼と共闘できるようになったということなんだけど。また、K-DUBは最近の風潮について「責任も感じているんだよ。“狂気の桜”や“平成維新”で、侍とか武士とか、日本人としての魂みたいなことをいくらか表現してきたから。“オレら日本人やばいっすよ”と言ってきたりするけど、ほかを排除することで満足しようとするならば、それは間違いだよね。いろんな人たちとともに、日本に住む誇り高き人になってくれればいい」(『現代詩手帖』、2014年10月号)とも言っている。

 もちろん、シーンの中には、“愛国ラッパー”を標榜して、田母神俊雄の応援演説に立ったり、前述の「物騒な発想」や、東アジアの平和を願った「WE’RE THE SAME ASIAN」(HAIIRO DE ROSSI, Takuma The Great)みたいなリベラルな曲が出てくる度にディスする楽曲をYoutubeにアップする、SHOW-K(ショック)というラッパーもいる。ただ、ラップは上手いけど、Twitterのフォロワーも少ないし、そこまで支持されている感じじゃない。

中矢:先程、日本のラップ・ミュージックはアイデンティティを探す過程で右傾化していったという話がありましたが、現状、右翼ラッパーがあまり見当たらないということは、その流れはどこに行き着いたのでしょうか?

磯部:前回、ZEEBRAが日本でヒップホップを広めるために、表現を意図的にヤンキー化させていったという話をしたけど、そのせいで、輸入文化だったラップ・ミュージックがある程度は定着して、「日本人がラップをする意味とは何か?」という問い自体にそれこそあまり意味がなくなったんだと思うよ。今時、「日本で生まれ育った人がヒップホップをやるとどこか違和感がある」なんて言っているのは為末大ぐらいでしょう。

中矢:彼はヘッズに総叩きされていましたね……。

磯部:あるいは、日本にヒップホップが定着したように見えるのには、社会状況の変化も関係している。例えば、09年に公開された『SRサイタマノラッパー』(監督・入江悠)は、平和で退屈な日本でラップをするのは滑稽で、だからこそ、泣けるという映画だったけど、2012年に公開された同シリーズの3作目『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』(同上)では、貧困ビジネスのような問題を取り上げて、むしろ、現在の日本でラップをするのは至って自然であるという描き方になっていた。映画『TOKYO TRIBE』はその流れを組んでいるとも言えるんじゃないかな。

 あと、3.11以降のヒップホップやレゲエ周りだと、右傾化よりも、人口地震とか不正選挙みたいな陰謀論を唱えるアーティストの方が気になるかな。“平成維新”を掲げていた窪塚洋介も、今や“地球維新”ってイベントを主催して、ベンジャミン・フルフォードを呼んだりしているからね。まぁ、ヒップホップやレゲエの場合は、ヤンキーにしても文系にしても、いわゆる意識が高いタイプが多いから右翼とか陰謀論に向かうわけだけど、インディ・ロックの場合、シニカルさをこじらせているタイプのミュージシャンが多くて、そっちはそっちで問題であるように思う。

 例えば、どついたるねんがライヴで「俺は 中国人 いい意味じゃなく 悪い意味で 中国人」と歌ったことがヘイト・スピーチだとネットで批判されたのは記憶に新しい。ちなみに、その炎上では、とあるブログのライヴ・レポートに引用された歌詞が参照されていて、叩いているひとのほとんどが実際には楽曲を聴いたことがないようだったけど、僕は1回だけ件の曲をライヴで観たことがあるんだよね。その時のことを振り返ってみると、確かに嫌な気分にはなったものの、どつはコンセプチュアルなバンドだから意図があるのかもしれないとも思って、隣でライヴを観ていた彼らと親交の深いライターの九龍ジョーに「何であんなことを歌うんだろう」と話しかけたら、彼が同曲のコンセプトは“作為”であって、「悪い意味で中国人」は偽悪的な言葉遊びなんだというような説明をしてくれたんだよね(参照)。恐らく、どつは、ヘイト・スピーチが悪であること自体は理解していて、だからこそ、現場がピリっとすることを歌おうと思って、あるいはいわゆる正しさに反抗しようと思って「悪い意味で中国人」って言葉をチョイスしたんだろうけど、それは、カウンター・カルチャーでも何でもない、反・反レイシズムみたいな単なる逆張りだよね。ただ、自分は九龍の説明に納得したわけではない一方で、彼らに直接、真意を問い正すこともしなかった。Twitterでは「客がその場でブーイングしなきゃ駄目だ」みたいな意見も多かったけど、いま思うのは、アイロニカルな歌詞に対して即座にジャッジを下すのは難しいということ。とは言え、ライヴが終わったあと話しかけるぐらいはしても良かったし、あの曲が炎上するまで放置されていたのはそれすら面倒臭がってしまった自分のような人間の責任でもあるんだなということだね。

中矢:この連載も毎回、物議を醸すようなことも言っていますけど、時評という形式を使って、リアルタイムに問題提起をしていけるといいですよね。

■磯部 涼(いそべ・りょう)
音楽ライター。78年生まれ。編著に風営法とクラブの問題を扱った『踊ってはいけない国、日本』『踊ってはいけない国で、踊り続けるために』(共に河出書房新社)がある。4月25日に九龍ジョーとの共著『遊びつかれた朝に――10年代インディ・ミュージックをめぐる対話』(Pヴァイン)を刊行。

■中矢俊一郎(なかや・しゅんいちろう)
1982年、名古屋生まれ。「スタジオ・ボイス」編集部を経て、現在はフリーの編集者/ライターとして「TRANSIT」「サイゾー」などの媒体で暗躍。音楽のみならず、ポップ・カルチャー、ユース・カルチャー全般を取材対象としています。編著『HOSONO百景』(細野晴臣著/河出書房新社)が発売中。余談ですが、ミツメというバンドに実弟がいます。

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