阿刀 "DA" 大志がレーベルの歴史を活写

横山健と俺の11年半ーーPIZZA OF DEATH元名物社員がつづる「疾風勁草」番外編

 自分は1999年6月から2011年1月まで約11年半の間、横山健率いるPIZZA OF DEATH RECORDSの社員だった。PIZZAが法人化したのは1999年1月なので、ほぼオープニングスタッフである。
 
 横山と初めて出会った場所は、アメリカ・オハイオ州コロンバスの学生街にあるライヴハウス。1998年4月21日のことだった。当時、テネシー州の大学に留学中で、タイミングよくHi-STANDARDがツアーでやってきたのだ。将来、音楽業界で働きたいと思っていた自分は、ライヴ終了後にメンバーを捕まえて己の夢をアピール。すると、ちょうど独立を考えていた彼らの思惑とハマったようで、ボーカルの難波からその場で社員として誘われ、入社が内定。ちなみに、1999年6月8日の出勤初日まで窓口になってくれていたのは難波で、横山がどういう人間なのかは全く分からないままだった。スタッフになった後もしばらくの間、彼は怖い存在だった。後日、本人から聞いたところ、どこの馬の骨かも分からない自分のような人間と一緒に仕事をするのは内心、かなり嫌だったらしい。そういう思いがあからさまに態度に現れていたところに当時の彼の一面が垣間見える。

 入社当時の横山との仕事で印象に残っているのは、イギリスのパンクバンドSNUFFのアルバムの日本盤をPIZZAからリリースさせて欲しいとお願いしに行ったときのこと。1999年8月の話だ。来日中だったSNUFFのメンバーが宿泊するホテルを訪ねる道中、横山は興奮を抑えきれずにいた。「うちからSNUFFのアルバム出せたらヤバくない!?」完全にキッズだった。SNUFFとの話し合いは大して込み入った内容でもなく、バンドの前向きな気持ちを確認して終了。それでも、帰りの車内は何か大きなことを成し遂げたような高揚感に包まれていた。今思えば、あの時の興奮が自分と横山の距離を縮めてくれたような気がする。

 元々、海外渉外担当として採用されたのだが、翌年4月のSNUFF「NUMB NUTS」とHi-STANDARD「Love is a Battlefield」同時リリースに関する全ての業務、宣伝、販促、制作、ジャケット進行等を彼は自分に担当させてくれた。それだけではない。こんな完全なる素人を音楽業界の様々な先輩のところへ連れて行き、アドバイスをくれるよう頭を下げてくれた。自分の会社のためとはいえ、かなり面倒をみてくれた。このことがきっかけで、その後のPIZZAにおける自分の担当は“リリースに関わる業務すべて”となり、自分一人がいれば何でもリリースできるというところまで鍛えてもらった。

 こんな風に社長として様々な業務を持ち前の責任感でこなしつつ、人気絶頂だったHi-STANDARDの活動も続けていたのだから、2000年初頭に彼が抑うつ状態に陥ってしまったのは無理もなかったのかもしれない。ちなみに、SNUFFのメンバーに会いに行ったのは、Hi-STANDARDの大ヒットアルバム「MAKING THE ROAD」のレコ発ツアー真っただ中のことだった。

 2000年夏、千葉マリンスタジアムで開催された「AIR JAM 2000」を何とか乗り越えた後、横山は病気療養のため会社に来なくなった。当然のことながら、船頭のいない船は不安定にならざるを得ない。社内は徐々に混乱した。あの頃のことはあまり覚えていない。人間の脳というのは、辛いことほど忘れやすくなる仕組みになっている。だけど、皆、「Hi-STANDARDのためになんとかここを守らなきゃいけない」という一心だったはずだ。そのうち、ポツポツと会社に顔を見せるようになった横山だが、そんな自分たちの想いは全く届いていなかった。彼はふざけていた。会社に来てもすぐにいなくなることもしばしば。そんな振る舞いをした彼の気持ちは今なら理解できる。だけど、当時は勘弁ならなかった。

 真面目な話をのらりくらりとかわし続ける社長と、遂に話し合いの場を持つことになった。自分を含むPIZZAの主要スタッフ3人対横山1人。いつ頃のことだったか、どんな話をしたかはあまり覚えていない。ただ、スタッフと横山で見ている方向が異なり、全く話が噛み合わなかったことはたしかだ。しかし、それでは終わらなかった。解決策が見つからないまま話し合いが膠着状態に陥った時にスタッフ側が発した「俺たちはみんな幸せになりたいんです!」という言葉が響いたのか、その日以降、少しずつ事態が好転していったような気がする。改めて文章にするとクサいドラマのようだけど、こっちだってそれだけ必死だったのだ。

 最近のファンからすると意外かもしれないが、10年前の彼はまだ一国一城の主としては頼りなかった。そもそも、PIZZA OF DEATH自体がまともなレーベルとして認知されていなかったし、アンダーグラウンドの人間からは陰口も叩かれていた。インディーの規模でありながら、メジャー的な展開をするレーベルというのは今でこそ珍しくないが、当時は皆無だったのだから仕方がない。しかし、2003年8月にリリースしたHAWAIIAN6「SOULS」のヒットを機に、社内の空気はすこぶる良くなった。

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