冨田ラボが語る、録音芸術の価値「スタジオでの録音は途轍もなくおもしろい」

 MISIAの最大のヒット曲である「Everything」や、中島美嘉のデビューシングル「STARS」ほか、キリンジ、bird、羊毛とおはな、坂本真綾、椎名林檎、木村カエラなど、数多くのミュージシャンの楽曲を手がけた音楽プロデューサー・冨田恵一氏(冨田ラボ)が、ドナルド・フェイゲンが1982年にリリースしたソロ・アルバム『ナイトフライ』を軸に、20世紀の録音芸術がどのような技術と工夫のもとに作られたのかを解説した書籍『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』を、7月18日に上梓した。「ポップ・マエストロ」「音の匠」とも称される同氏は、自身初の音楽書の題材としてなぜ『ナイトフライ』を選んだのか。そしてそこから見えてくる録音芸術の豊かさとはどのようなものか。執筆の動機からそのスタンス、そして現在の音楽シーンにおける録音物の価値についてまで、幅広く話してもらった。聞き手は、音楽ジャーナリストの宇野維正氏。(編集部)

「『ナイトフライ』は、ポップミュージック史において非常に特殊な作品」

――数ヶ月前に冨田さんがドナルド・フェイゲン『ナイトフライ』について一冊書き下ろした本を出版されるという噂を聞いた時点で、「これはおもしろい本になるに違いない」と思っていたのですが、実際にこうして出版されたら、これがもう予想をはるかに超えるおもしろい本で。ちょっと、読んでいて知恵熱が出るほどの充実した内容だったので何から訊いていこうか迷ってるんですけど(笑)。

冨田:(笑)。

――そもそも、批評家上がりのミュージシャンというのは海外だと何人か思い浮かぶのですが、ミュージシャンがこれだけガッツリした批評本を出すこと。それも、自分が直接関わったわけではない1枚のアルバムについて丸々1冊の本を書き上げること。それ自体がかなり異例なことですよね?

冨田:なかなかないですよね(笑)。そもそものきっかけは、2012年に『スティーリー・ダン―Aja作曲術と作詞法』(ドン・ブライトハウプト著)の翻訳本が出版された時に、その後書きを依頼されたんですね。その時は、もともと音楽についてのコラムを書いたり連載していたこともあって「書けないことはないな」と思い引き受けたんです。で、その同じ編集者から「今度は『ナイトフライ』について一冊書きませんか?」と提案をいただいて。

――あ、もともとは編集者の方の企画だったんですね。もしその時点で、こんなにおもしろい本になることを想像できていたとしたら、すごい敏腕編集者ですね(笑)。

冨田:本のプロモーション的には「長年温めてきた企画で」と言った方がいいのかもしれませんが(笑)。僕は音楽を作る側の人間なので、自分発信で、誰かの作ったアルバムについて批評本を書くことを考えることはないし、そういう立場でもないです。ただ、もちろんスティーリー・ダン/ドナルド・フェイゲンの音楽は昔から好きでしたし、そこからさらに『ナイトフライ』という作品をピックアップして、音楽の作り手に寄った角度から論じるのであれば、それはちょっとおもしろそうだなと思ったんです。最初に編集者の方にはその旨お伝えして、アプローチは了承頂きました。

――冨田さんにとってスティーリー・ダンというバンド、あるいはドナルド・フェイゲンというミュージシャン、あるいは『ナイトフライ』という作品は、数ある好きな音楽の中のワン・オブ・ゼムなのでしょうか? それとも、ワン・アンド・オンリーな存在なのでしょうか?

冨田:ん~、ワン・アンド・オンリーと言ってしまえるほどではないけど、ワン・オブ・ゼムというわけでもない(笑)。「それで一冊書いてみませんか?」と言われた時に、すぐに「書ける!」と思ったということは、ただ単に好きなアルバムというわけではないんだと思います。本の中にも書きましたが、『ナイトフライ』という作品は、スティーリー・ダン/ドナルド・フェイゲンのキャリアの中でも特別な作品だったし、1982年というレコーディングにプログラミングが導入されるようになった時期にリリースされた作品という意味でも、ちょっと特殊な作品だったと思うんですね。もちろん、名盤として非常に高く評価されてきた作品ですし、ドナルド・フェイゲンの自伝的な要素が入った作品という観点からはいろいろ語られてきた作品ではありますが、特にそのサウンド面においてポップミュージック史的に非常に特殊な作品であるということは、これまであまり語られてこなかったと思うんですね。それはリリース当時から思っていたことだし、その後に自分がプロのミュージシャンになって、レコーディングの現場で30年近くいろいろな仕事をしていくうちに「あぁ、あれはそういうことだったんだ」と気づかされるようなこともたくさんあって。そういう自分の中に蓄積されたものを書けば、もしかしたら他人が読んでも面白いのかな、とは思いました。

――『ナイトフライ』がリリースされた1982年、冨田さんは大学生ということになりますよね? 今回の本はあくまでも冨田さんによる作品論で、あまりパーソナルな部分には触れていなかったので、当時どういう音楽生活の中でこの作品に出会ったのか教えてください。

冨田:ちょうど二十歳で、音楽専門の大学ではなかったのですが、わりと本格的に音楽をやっていた時期です。もちろんアマチュアですが。10代の頃からビートルズやスティーヴィー・ワンダーが好きで、基本歌ものが好きだったんですけど、高校生になってギターを練習するようになってからはジャズやフュージョンにも興味が出てきて。高校生で、歌ものが好きで、ジャズやフュージョンにも興味があるというと、もう必然的にスティーリー・ダンが好きになるわけです。で、大学に入学するために北海道から東京へ出てくると、AORやブラック・コンテンポラリーが流行っていて、他に聴くべき音楽がたくさんあったから、スティーリー・ダンは一度過去の存在になってしまったんですね、自分の中で。『ナイトフライ』が出たのはそんな時代で、ちょっと古いものになってしまったように感じていたスティーリー・ダンの音楽が、ドナルド・フェイゲン名義ではありますが、そこでちゃんと今(82年)の感じになっていて驚いたんです。自分の好きだったスティーリー・ダンの要素はそのままに、ちゃんとアップデートされて、「これはカッコいいな!」と。

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