新刊『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』対談(前編)
宮台真司+小林武史が語る、音楽と変性意識「60年代の音楽はエモーションを丸ごと録ろうとした」
社会学者・宮台真司氏が、戦後のサブカルチャーの変遷などを通して、現在の日本の難点を読み解いた書籍『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』を2月20日に上梓した。この本の刊行を記念し、氏とかねてより交流のある音楽プロデューサー・ミュージシャンの小林武史氏とのトークイベントが、5月29日に池袋コミュニティ・カレッジにて開催された。リアルサウンドでは今回、同イベントを独占取材。宮台氏が〈クソ社会〉と呼ぶ現代の日本において、音楽やサブカルチャーはどんな役割を果たし、我々に何をもたらすのか。前編では「変性意識状態」をキーワードに、60年代からのポップミュージック史をめぐる白熱の議論が展開された。
(参考:日本経済新聞「私たちはどこから来て、どこへ行くのか 宮台真司著 サブカルで解く「生活」の空洞化 」)
小林「演奏しているとよく変性意識状態になる」
小林:宮台さんの新刊『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』は、僕が子どもの頃から一番興味のあること――つまり僕はどこから来てどこに行くのか、今いる場所はどこなのかっていう、これまで幾度も色んな人に訊いてきたことがテーマになっていると感じました。仕事においても今何を目指していて、どの段階にいるのかということをその都度話してきたので、とてもフィットするものがあります。今日は特に1960年代以降、僕らが生まれた頃について、宮台さんにいっぱい話を聞きたいですね。
また、昨年末に出された『「絶望の時代」の希望の恋愛学』を読んできたのですが、この本の中に「変性意識状態」という、久々にドンピシャでヒットするという言葉がありました。僕はこの言葉を、日常の中で当たり前のようにある事象にだけコミットするのではなく、身体性も含めてすべてを解放することによって、生命力みたいなところに至る、という風に解釈しました。僕はミュージシャンなので、演奏しているとよく変性意識状態になるんですよね。
宮台:僕の最近のキーワードは〈クソ社会で見る一瞬の夢〉ですが、この〈一瞬の夢〉と響き合うのが変性意識状態です。Altered state of consciousnessの訳で、通常とは異なる意識の状態です。
前催眠状態という言い方もしますが、外からいろんな情報が書き込まれやすい「委ね」の状態だからで、催眠術の現場では術士が催眠に先立ってこの状態を作り出します。
もう一つの例ですが、海に潜ると10分潜ったと思ったら30分だったという具合に時間の見当識、つまり時間感覚が狂います。これがまさに変性意識状態の目印です。
ということは、音楽体験でも、映像体験でも、セックス体験でも、変性意識状態に入れるということです。なぜなら、激しく没入すれば、同じように時間感覚が狂うからです。
では、なぜ〈一瞬の夢〉という言い方をするのか。理由は、社会がスーパーフラットになった結果、音楽においても、セックスにおいても、祭りにおいても、変性意識状態に入りにくくなったからです。
つまり、今の人々は、シラフで〈クソ社会〉を生きています。実際、損得勘定の浅ましい枠組から逃れられず、ハブにされるかも⋯陰口叩かれるかも⋯騙されるかも⋯と自己防衛の疑心暗鬼と浅ましさの中にいます。
つまり、どうしようもない〈日常の重力〉に縛られた状態でモノゴトを体験し、それをベースに振る舞いがちなんです。社会人類学や民俗学が教えてくれるように、そんな状態では人々はもちません。
小林:僕はちょうどsalyuっていうシンガーと、明日から2人でツアーをやるのですが、音楽をやっていると1分とか5分とかいう感覚は怪しくなるんですね。2人で自由にやっていると、いったい何分経ったかわからないという状態にどんどん入っていく。それが楽しいんですね。ライブではそうした時間の中にただ自分を放り込む体験で、ものすごい音楽の波、タイム感というものの中に、水が流れるがごとく反応していくだけになるんです。僕とsalyuには男女の関係とかはないんですけど、そういうこととは別にセックスとかと近い感覚があって、自分の音と、彼女の歌声の差がよくわからなくなります。
宮台:自他境界の見当識が混乱した状態だから、変性意識状態そのものです。
小林:もちろん演奏技術はある程度必要なので、どこかでちゃんと通常の意識を保とうとする自分もいるんだけど、この感覚が音楽を司っている自分にとってものすごく大切なものだということはわかる。それは生命力と音楽というものが呼応しているということで、それこそ変性意識状態なんだろうな、と。
宮台「リリィ・シュシュの唄こそが、意識を〈世界〉に飛ばすツールになっていた」
宮台:僕が小林武史さんと最初にお会いしたのは、岩井俊二監督の映画『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)の公開直後に、salyuのシークレットライブを観にいったときでした。
映画では忍成修吾くんが演じる星野修介という準主人公が、〈クソ社会〉を生きる術として、意識を〈社会〉ならぬ〈世界〉に飛ばします。この術を習得した後、星野は何でもありの極悪人になるわけです。
映画では意識を〈世界〉に飛ばす術があれこれ描かれます。星野が術を身につけたきっかけは西表島の体験でしたが、何よりリリィ・シュシュという歌手の唄こそが、意識を〈世界〉に飛ばすツールになっていました。
もちろんこの唄や楽曲は小林武史さんとsalyuのものですが、実に素晴らしい。僕はもともとノイズ系を含むアンビエント系の音が好きで、〈社会〉の中のサウンドって好きじゃないんですが、そんな僕がハマれました。
〈社会〉には、快や美を与えるサウンドと、不快や醜を与えるノイズがあります。こうしたサウンドとノイズの二項対立の外で、これらの混ざり合いであるサウンドスケープを快や美として享受するのが、アンビエント。
また、〈社会〉の中からでなく、〈社会〉の外つまり〈世界〉から聞こえるものに──〈社会〉の外だからサウンドともノイズとも定義できないメタサウンドやメタノイズ──耳を澄ませて享受するのも、アンビエント。
〈クソ社会〉にウンザリした僕らは、〈社会〉ならぬ〈世界〉からの訪れに耳を澄ませたいと思いますが、小林さんの曲はまさにそうした〈世界〉からの訪れで、映画ではそれがエーテルと呼ばれます。
全曲が映画に向けてチューニングされていつつ、映画はむしろ小林さんの曲のコンセプトに引っ張られて成立している。そんな小林さんなら〈クソ社会に見る一瞬の夢〉という意味を誰よりも深くご理解いただけるはず。
僕は今、ノイズミュージックで知られる秋田昌美さんが出す新譜のプロデュースに関わっていて、リリース時にノイズイベントのDJをやる予定ですが、それに合わせて、過去に僕が好んで聴いた作品を聞き返しています。
1960年代から90年代前半にかけての作品には、〈クソ社会〉に内属する音じゃなく、その外側に意識を飛ばすことを助けてくれる楽曲がたくさんあります。80年代から90年代でいえば、じゃがたらやフィッシュマンズです。