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リドリー・スコットがアメリカ映画を退廃させた? 荻野洋一の『ゲティ家の身代金』評

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 監督デビュー前のゴダールは、批評家として週刊誌『アール』に次のように書いた。「イギリス映画についてなにか言うべきことを見つけ出すためには、まさに頭をひねらなければならない」。このゴダールの当惑(と、おそらくは不信感)は今日でも有効であるように思える。辛辣なゴダールはなおも続ける。「なぜなのかはわからない。しかし、事実そうなのだ。しかもこの規則には、この規則の正当性を証明するはずの例外さえもないのである」。多くの賛否両論に晒されてきた北東イングランド出身の映画作家リドリー・スコットを、讃嘆といささかの当惑をもって眺めてきた者からすると、最新作『ゲティ家の身代金』においてもなお、スクリーン上にただよう違和感の斑点がちらちらと視界をよぎってきて、映画でありながら映画から離反していく何かとしか言いようのない齟齬となっていく。

 じつのところスコットが純粋にイギリスの作家であったのは、カンヌ国際映画祭で新人監督賞を受賞した1977年のデビュー作『デュエリスト/決闘者』の時だけだ。この作品の日本公開はアメリカに進出した第2作『エイリアン』(1977)と第3作『ブレードランナー』(1982)の中間にずれこんだのだが、今はなき新宿歌舞伎町の「シネマスクエアとうきゅう」での単館公開だった。奇しくもリドリーの弟トニー・スコットの監督デビュー作『ハンガー』(1983)も兄を追いかけるようにして、同じく「シネマスクエアとうきゅう」で公開されている。スコット兄弟がCM業界から卒業して映画界に進出したこのころ、イギリス映画はジョン・ブアマンとニコラス・ローグの時代だった。一方、スコットは『デュエリスト』のあとすぐにアメリカ映画界に活動の場を移す。『エイリアン』『ブレードランナー』はもちろん、『ブラックレイン』『テルマ&ルイーズ』『グラディエーター』といったたくさんの代表作、さらには近年の『エクソダス:神と王』『オデッセイ』『エイリアン:コヴェナント』あたりまで改めて概観してみると、今年81歳を迎えるリドリー・スコットの長期の活躍に目を見張る。

 ところで、アメリカ映画はいつからストーリーテリングをおろそかにし、スマートに効率的にエキサイティングに物語を語ることをやめて、パビリオン効果の品評会に堕するようになったのか? マイケル・ベイのあのだらだらとした『トランスフォーマー』シリーズなどは現代アメリカ映画の退廃だと思うが、筆者はこのトレンドの真犯人がほかでもないリドリー・スコットだったのではと長期にわたり疑ってきたのだ。多くの識者は「それを言うなら弟のトニー・スコットの方だろう」と笑いながら訂正しようとするかもしれないが、正解は逆だと思う。いや、真犯人というのはさすがに言い過ぎとはいえ、重要なプレーヤーであることは間違いない。このあたりの結論はもう少し引き延ばしたいところだが、事情がスピルバーグと異なるのは、スピルバーグが進取の精神と共に、より濃厚に古典的アメリカ映画のストーリーテリング的遺風を残しているためである。そして、中東におけるイスラエルの特権性をこれでもかと視覚効果で囃し立てるスコットの近作『エクソダス』を見るにつけ、これが映画のストーリーテリングとはまったく異質な政治的スペクタクルとしか思えないのである。

 本作はアメリカの石油王ゲティ氏の孫ポールが1973年、イタリアのマフィアに誘拐されるところから始まる。真夜中のローマ市街をロングヘアの美少年がそぞろ歩く横移動のショットは生彩を帯び、街の売春婦たちと軽口をかわした彼がワゴン車に拉致されるまでの一連のショットは大いに期待させる。ポールの母親(ミシェル・ウィリアムズ)はゲティ家の跡取り息子とは数年前に離婚しており、ポールの身代金$1700万(約50億円)を支払えない。彼女は金策のために、イギリスに移住したゲティの城館まで通いつめるが、ポールの祖父ゲティ氏はなんと「身代金なんて払いたくない」と冷たく言い放つ。石油王の言い分はこうだ。「前例を作ったら、他の14人の孫たちも誘拐の標的になる」。ポールの母は物語を通じてひたすら自分の無力を思い知らされ続ける。彼女は誘拐犯と対峙し、マスコミ報道と対峙し、イタリア警察と対峙するばかりでなく、極度のけちん坊である義父とも対峙しなければならない。世界一の金持ちを描いているにもかかわらず、この映画における金銭の不在はブラックユーモアの域にさえ達しているのではないか。少年の切断された片耳の写真が一面を飾る新聞の束がゲティ邸に届けられたことによってようやく、その紙の夥しい量に免じて、申し訳程度に紙幣に取って代わるのみだ。

 主演のミシェル・ウィリアムズと誘拐犯グループの攻防は、さしたるスリルも映画的興奮も喚起しない。交渉人として雇われた元CIAエージェントの男をマーク・ウォールバーグが演じていたりするものだから、てっきりこの男が本領を発揮して犯人グループを一網打尽、ポールの身柄をみごとに奪い返すばかりか、母親のハートまで奪ってみせてハッピーエンドを迎えると想像するのがスジだろう。普通のアメリカ映画ならそうだ。ところが何もかもうまく事が運ばない。まずマーク・ウォールバーグが演じる元エージェントからして、まったくやる気が感じられない。イタリア警察の捜査も停滞し、中年マフィアのまっ黒こげな焼死体をろくな検証もせずに「息子さんの遺体を確認してくれ」などとミシェル・ウィリアムズに見せびらかしたりする。この映画ははたして、ミシェル・ウィリアムズの骨折り損を嗤うブラックコメディなのか?

      

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