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宮台真司の月刊映画時評 第1回(後編)

宮台真司の『オン・ザ・ハイウェイ』評:ギリシャ悲劇の王道に連なる、86分間の密室劇

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前編:【宮台真司の『バケモノの子』評:言葉ならざる親子の関係を描く、細田守監督の慧眼】

経験論を否定する『オン・ザ・ハイウェイ』

 『バケモノの子』と同じく「父と子」が重要なモチーフになっている『オン・ザ・ハイウェイ』も、非常によくできた映画です。原題は『Locke』。人名がタイトルというのは珍しく、しかも人名としてありふれたものじゃないので、イギリスの経験論哲学者ジョン・ロックに絡めているのは明らかです。しかし、結論は経験論の否定なのです。

 日本人には馴染みがないでしょう。イギリス経験論はフランスを中心とする大陸合理論と対比されます。アプリオリ(経験に先立つもの)を認めず、アポステリオリ(経験を通じて獲得したもの)だけが信じられるとする立場です。法の世界では、ローマ法に発する法原則探求的な制定法主義とは異なる、先例踏襲的な判例法主義に対応します。

 ことほどさように、普遍原則より共通感覚(コモンセンス)を重視する立場です。これをさらに言い換えると、最初から正しいことや妥当なことが確定している選択はあり得ない。正しさや妥当性は、ソレを選択した後に、やがて汐のように次第に満ちてくる感覚──最初からどんな感覚になるかは決まっていない──が与えるものである、と。

 映画は「車中の男」というワンシチュエーション。冒頭、左ウインカーを出している車が、突然、右ウインカーを出してハイウェイに乗るところから始まる。そう、最初に選択があった。しかし、それが何を選択したことになっているのか全く分からない。やがて、本当は帰趨がどうとでもあり得たはずの選択の、帰趨が明らかになって行きます。

 『マッドマックス 怒りのデスロード』の主演で話題のトム・ハーディ演じる車中の男=アイヴァン・ロック。左から右へのステアリング切り替えは、過去に一度だけ関係を持った女の電話で、愛妻と二人の息子が待つ家に向かうのをやめたことを意味します。 彼が選択肢を前にして迷い、エイッと選ぶこのシーンは、全体のモチーフを表現します。

 エイッと選んだ後はまさに”オン・ザ・ハイウェイ”。ハイウェイだから下りることもなく、迷うことも引き返すこともできず、選んだ目的地に進みます。『Locke』という原題も示唆的ですが、日本版のタイトルも非常に優れていると思います。強いて寓意を拾えば「選んだ以上はもう下りられない」という日本語の意訳になるだろうと思います。

 だからこそ経験論的な綻びがあります。詳しく説明します。普通の映画は「俺の選択は間違っていたのではないか」と反省し、幾らハイウェイとはいえ途中で出口を下りたり目的地から引き返したりして、家族の元に帰ったり翌日の超高層ビルの生コン流し込み事業という大仕事に戻ったりすることをアレコレ考えて逡巡する主人公を描きます。

 それが、この映画では、最初に選択した後はそれに続く全ての選択は「既になされてしまった選択」という様相でやり過ごされます。それに併せて、規定不可能性のサスペンスは、運命の系統樹的な分岐を巡るものとしては出現せず、「すでになされてしまった選択」の帰趨が、どんな姿をとって現れてくるのか、に集約されて描かれるわけです。

 印画紙にゆっくりじわじわと現像プリントが浮かび上がるのに似ています。ルイ・マル監督『死刑台のエレベーター』のラストシーンみたいに。しかし、この喩えと違うところは、ゆっくりじわじわと浮かび上がる現像プリントが、浮かび上がるまではどのような映像になるのかが決まっていないということ。まさしく「経験論的」世界観です。

 別の喩えです。濁流に荒れ狂う川に、向こう岸を目差して飛び込んだイメージを想像しましょう。戻ろうにも、自分が飛び込んだ岸辺は既に崩れ、泳ぎ続けるしかない。けれど、泳ぎ続けたところで、向こう岸のどこに辿り着くのか、そもそもどこかに辿り着けるのかさえ分からない。全ては偶発的だけれども、全ては最後になって分かる⋯⋯。

 主人公ロックは、なぜ引き返せないのか。どんな意味で、自分が飛び込んだ岸辺が既に崩れているのか。そこがこの映画のキモなのです。映画では、存在しないはずの父親の亡霊と主人公との対話が描かれ、「父親と同じ生き方を繰り返したくない」という主人公の思いが強いからだ、と説明されています。果たしてそれはどんな生き方でしょう。  

 そこに出てくるのが「捨て子」のイメージです。ワンシチュエーションの作品で回想シーンのカットバックも一切ないので詳しくは不明ですが、主人公は父親と浮気相手との間に出来た子どもらしく、浮気相手である母と自分が捨てられたことが暗示されます。それが「父親と同じ生き方を繰り返したくない」という思いに結実しているようです。

 「責任を果たすこと」へのこだわりゆえに、最初の決定的選択をした後に迷わなかったのだ、と理解する観客もいますが、誤解です。「捨て子」は対称的。本妻と営む家族に戻れば、浮気相手との間の子どもは捨てられるけど、浮気相手と営む家族に乗り換えれば、本妻との間の子どもは捨てられます。映画にはこの対称性がシツコク描かれます。

 それがサッカーのテレビ中継をめぐるエピソードです。主人公の息子たちは、自分たちの両親が電話でのやりとりでただならぬ状況に陥ったことを察知します。にもかかわらず──というより「だからこそ」──父親との電話では無邪気にサッカー中継の話題に興じます。それが新たに「捨て子」になる子どもたちを浮かび上がらせる仕掛けです。

 「父親と同じ生き方を繰り返したくない」との思いは「呪い」です。呪いだからこそ、「父親と同じ生き方を繰り返したくない」と思う主人公は「父親と同じ生き方を繰り返す」のです。ここに経験論の綻び──未規定性──があります。重すぎる経験が、後々の経験にとって「経験に先立つもの=呪い」を準備してしまう、という重大な逆説です。

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