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冨田勲が“日本テクノ界の始祖”と呼ばれるまでの軌跡 幻の音源から創作の原点を紐解く

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 2016年5月5日に逝去した、世界的シンセサイザーアーティストで作編曲家の冨田勲による、日本コロムビアに遺した貴重な初期音源集『MISSING LINK of TOMITA ~冨田勲 日本コロムビア初期作品集 1953-1974~』が5月23日にリリースされた。

 冨田勲といえば、シンセサイザーのみで制作された1974年のアルバム『月の光』で、日本人として初めてグラミー賞にノミネートされ、「日本テクノ界の始祖」として後の音楽シーンに計り知れない影響を与えた音楽家である。その後もNHK大河ドラマやドキュメンタリー、映画音楽など多数作曲し、また近年は、初音ミクとのコラボレーションによる『イーハトーヴ交響曲』や、遺作となった『ドクター・コッペリウス』など、新しいテクノロジーにも果敢に取り組み慢性心不全で倒れる直前まで精力的に活動を続けてきた。

 本作は、そんな冨田がキャリアのスタートからシンセサイザーアーティストとして名声を得るまでの約20年の間に手がけてきた、知られざる作品群を集めたものである。

 1932年、医師の長男として生まれた冨田の子供時代の夢は、飛行機の技師になることだったという。落ちていたブリキを拾ってモーターや変圧器を作ったり、電解液を組み合わせてコンデンサーを作ったりしていた彼が、のちにシンセサイザーに魅入られるのは自然の流れだったのかも知れない。その一方で、大学は慶應義塾大学文学部で美学美術史を専攻し、弘田龍太郎について音楽理論を学ぶなど芸術への感覚も鋭く、大学2年の時にコンクールに応募した合唱曲「風車」が1位になると、作曲家への道へ進む決意を固めた。

 在学中からNHKラジオの番組などで仕事を始め、ひばり児童合唱団でも演奏、指導、作曲などを行うように。1954年には日本コロムビアの専属作曲家として迎えられ、学芸、邦楽、洋楽部門で幅広く作編曲を行った。翌年大学を卒業すると仕事はさらに増え、1956年のメルボルンオリンピックに参加した日本女子体操選手のための伴奏音楽の作曲や、日本コロムビアでの学校教材用のレコード、森永製菓などコマーシャル音楽の編曲など、その数は400曲以上に及んだという。この時の経験が、大河ドラマや、手塚治虫原作のテレビアニメ、円谷プロダクションや東映の特撮番組の音楽づくりに大いに役立ったことは言うまでもないだろう。

 ちなみに、手塚作品における富田のスコアを音源化した『冨田勲 手塚治虫作品 音楽選集』が、2016年11月に5枚組のCD-BOXという形でリリースされ話題となったのは記憶に新しい。

 ここ最近は、そうした「職人時代」の冨田作品が数多く発掘されており、今回の『MISSING LINK of TOMITA』もその一つ。「映像音楽の作曲家」としての再評価も進んでいるが、それまで冨田勲といえば「シンセサイザーアーティスト」というイメージが一般的だった。

 彼が初めてシンセに出会ったのは1969年、大阪万博で「東芝IHI」のパビリオンの音楽をレコーディングするため大阪に滞在した時。訪れた輸入レコード店で、ウォルター・カーロス(現在は性転換しウェンディ・カーロス)の『Switched-On Bach』というモーグ・シンセサイザーを駆使したバッハの作品集を聴き、その音色が持つ可能性に強く心を惹かれたことが全ての始まりだ。

 1971年、当時の金額およそ1000万円のMOOG III-Pを日本で最初に個人輸入した冨田は、自宅にマルチトラックレコーダーを備えたプライベートスタジオを設立、説明書も何もない“鉄の箱”と格闘しながら、電子音によるオーケストラ楽曲の再現に挑んだ。同じメロディを何度も手弾きで重ね、音の厚みを出すなど工夫を凝らしながら1年半近くを費やし、ようやく完成させたのが『月の光』だったのである。この作品は、ビルボード誌のクラシックチャートで1位を獲得、グラミー賞にもノミネートされるなど商業的にも成功したのが何より重要で、それが後のYMOやKraftwerk、ゲイリー・ニューマンなどポピュラーミュージックとしての電子音楽につながっていくことになったのである。

      

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