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ボサノヴァとMPBをつなぐブラジル音楽界の巨匠 エドゥ・ロボが語る、インスピレーションの源泉

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 60年代半ばから後半にかけてブラジルではMPB(ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ)と呼ばれる新たなジャンルが生まれ、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ミルトン・ナシメント、シコ・ブアルキ、ジョイスといった、数多くの才能溢れるシンガーソングライターを輩出した。その中でも、いち早く頭角を現したのが、当時まだ駆け出しだったエドゥ・ロボだ。MPBの女王エリス・レジーナが歌ったエドゥの「アハスタォン」は、65年のMPBソング・フェスティヴァルで優勝。67年に自身の「ポンテイオ」、翌年に「サンタマレーの思い出」が入賞すると、エドゥは一躍、新世代を代表する存在として知られるようになった。“MPBシーンの鬼才”といわれた彼は、その後、半世紀に渡ってブラジル音楽界で活躍し続けることになる。

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 4月4日、実に45年ぶりとなるエドゥ・ロボの日本公演が、ビルボードライブ東京で行われた。ブラジル国内のメディアにも滅多に現れることのないエドゥに、単独インタビューを敢行し、いくつか貴重な証言を得ることができた。

 エドゥのコメントを交えながら、彼のこれまでの足跡を辿りたいと思う。

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 著名な作曲家フェルナンド・ロボを父に持ち、43年にリオデジャネイロで生まれたエドゥは、幼い頃から父のルーツであるブラジル北東部(ノルデスチ)を頻繁に訪れ、フレヴォやシランダなどの伝統音楽を聴きながら育った。

「両親がレシーフェ出身だから、昔から休暇の度に、毎年3ヶ月とか北東部で過ごしていた。ガラニュン(※レシーフェから内陸にも入った都市)にも行ったよ。親戚も皆あっちなんだ。自分はリオ生まれだけれど、血はペルナンブカーノ(※レシーフェのあるペルナンブーコ州出身)だ」

 10代のうちから同い年のマルコス・ヴァーリやドリ・カイーミらと行動を共にしていた彼は、ある時、詩人のヴィニシウス・ヂ・モラエスに遭遇する。自作の曲はないかとヴィニシウスに聞かれ、その場で詞をつけてもらったエドゥは、一晩にしてヴィニシウスのパートナーになった。

「ヴィニシウスに、トム・ジョビンやバーデン・パウエルなど有名なミュージシャンを紹介してもらってね。その中で作曲のノウハウを学んだ。今のブラジルでは考えられないような、すばらしい環境だった」

 64年にエドゥは『エドゥ・ロボによるエドゥ・ロボ、タンバ・トリオと共に』で鮮烈なデビューを果たす。エドゥの不協和音を多く用いた独自のメロディライン、ノルデスチの土着的なリズムを融合させた唯一無二のサウンドは、新たな刺激を求める若者たちに熱狂的に受け入れられた。

 そんな中、69年にエドゥはセルジオ・メンデスの薦めで、約2年間、映画音楽の作編曲やオーケストラ・アレンジを学ぶために渡米。70年には全米デビュー・アルバム『セルジオ・メンデス・プレゼンツ・ロボ』を発表し、その名を世界にとどろかせた。

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 エドゥが初めて日本を訪れたのも、セルジオ・メンデスのワールド・ツアーの時であった。

「セルジオと来日した時は、ハード・スケジュールで大変だった。15日で15もの公演をこなすんだから。当時、娘がまだ生まれたばかりで、自分も27歳と若かったから、そんなツアーにも耐えられたんだろうね」

 ブラジル帰国後も精力的に活動し、後にエドゥの代表曲となる「ヴェント・ブラーヴォ」、「ヴィオラ・フォーラ・ヂ・モーダ」を収録した『エドゥ・ロボ』(1973)、まだ無名だったチェロ奏者のジャキス・モレレンバウムがフィーチャリングされた『リミチ・ダス・アグアス』(1976)、七変化のグルーヴで魅せる『カマレアォン』(1978)など、数々の傑作を生み出した。

「「ヴェント・ブラーヴォ」のメロディは冬のパリで生まれた。ブラジルでは体験したことのない冷たい風だった。つらかったよ(笑)。そんな状況の中で、この曲は作られたんだ」

      

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