>  > 井上ヨシマサが語る30年の作家人生

作曲家デビュー30周年記念インタビュー

「AKB48の仕事もソロ活動もオートクチュールの世界」井上ヨシマサが振り返る、30年間の作家人生

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 作詞・作曲・編曲家として数多くのヒット曲をシーンに送り出し、近年ではAKB48グループの楽曲を手掛けていることでもお馴染みの井上ヨシマサが、作曲家デビュー30周年記念アルバム『それぞれの夢~井上ヨシマサ30周年記念アルバム~』を7月29日にリリースした。アルバムには、ソロ歌手としてのオリジナル曲に加え、「真夏のSounds good !」や「泣きながら微笑んで」といったAKB48曲のセルフカバーをはじめ、脈々と歌い継がれてきたレオパレス21のCMソング「それぞれの夢」の最新バージョンも収録されている。今回リアルサウンドでは、彼が2年前に設立した『444Studio』を訪問。作家人生を歩むことになった音楽遍歴や、AKB48立ち上げ時の裏話、8月21日に発売した自叙伝エッセイ『神曲ができるまで』などについて、大いに語ってもらった。

「最初は、事務所の人やアーティストの喜ぶ顔が見たくてヒット曲を書いた」

――ヨシマサさんの輝かしいキャリアは、中学生バンドながらYMOと共演まで果たしたコスミック・インベンションからスタートしますが、それ以前の、音楽的な原点はどこにあるのでしょうか。

井上ヨシマサ(以下、井上):僕の原点は、いやいや習わされたクラシックピアノですね。そこで基礎を覚えたのですが、小学生のころにサミー・デイビスJr.「ダイナマイト」のスキャットを聴いて、衝撃が走りました。この音楽はなにかと父親に聞いたら、「これはジャズだよ」と教えられ、そこから掘っていくうち、オスカー・ピーターソンなどのピアニストに辿り着きました。「いつか自分も弾けるようになりたい」と思い、小学校のブラスバンドに加入したんです。、そのときはスタンダードのジャズが中心で、グレン・ミラーなど、分かりやすいメロディーのものばかりでした。僕が今でもシンプルでかつ心の響くメロディーを追い求めるのは、「スタンダード」と呼ばれる名曲達の影響が強いと思ってます。ジャズの歴史を辿っていくうちに、白人のジャズと黒人のジャズSOULの違いみたいのものを微妙に分かるようになり、僕は次第にブラックミュージック側に興味を持つようになりました。でも、そこからアース・ウィンド・アンド・ファイアーのようなダンスミュージックの要素を持ったジャズにもハマって。

――そこからバンド結成まではどのような遍歴を?

井上:いつの間にかダンスミュージックにものめり込み、デヴィッド・フォスターが、白人のミュージシャンを使ってアース・ウィンド・アンド・ファイアーのアルバムを作った話を聞いて、「このスティーブ・ルカサーというのは誰なんだろう?」と疑問に思い、調べていくうちにTOTOのアルバムに辿りつき「スタジオミュージシャンとして活躍している人間がアルバムを作ることもあるのか」と知りました。そのころから、“表舞台に立つ人と裏方”という概念が僕の中からなくなっていて、見に行ったコンサートでも、サポートミュージシャンの太っちょなサックスがすばらしいソロを吹いていたり、頭ツルツルの人のクラリネットが上手かったりして。容姿と関係なく素晴らしい音楽というのは存在していると改めて感じて、やっぱり音楽家になりたいと思ったころに、ブラスバンドが解散し、コスミック・インベンションが結成されました。すると、突然表舞台に出るようになって、ビジュアルも重視される世界になってしまった。

――ポップス・歌謡曲の世界は音楽的な要素より芸能的な要素の方が強い印象だったのですね。

井上:そうですね。もちろんバンドはみんな演奏が上手かったのですが、最終的に一番容姿の良い子が真ん中に来て、僕は端で弾くようになりました。小学校のブラスバンド時代、自分のパートが貰えない生徒が涙ぐましい努力の末、やっとポジションを掴む。そんな日常を過ごして来た自分にとって、理解が出来ないことが起きていました。「僕が思っていた音楽の世界とは違う」と思うようになりました。そのうえで、僕のやるべきことはもっといい音楽を作り続けることだと考えて、優秀なプロデューサーである田村充義さんに話を通してもらって、バンドのアルバムに数曲自作の曲を入れて頂いたのが、僕の作曲人生の始まりです。バンドとしては歌ものにどんどんなっていったので、そことは切り離して曲のクオリティをどんどんあげていきました。

――自分の納得する曲を納得いく形で出したかった?

井上:そうです。ビジュアルではなく音楽で人を振り向かせたかった(笑)。自分のアルバムを作ろうと思って田村さんに曲を持って行っては、プロが作る楽曲について「僕の曲の方がいいような気がするんですけど」と生意気なことを言ったりしていましたが、同時に親からは「高校もバンドも辞めて、家にお金も入れないでバイトして…何をやっているんだ」と叱られていました。そんな中、必死で自分の理想とする曲を手探りで作り初めました。但し自分の理想とする作品で直ぐに生活が出来る様になる程世の中甘くない。音楽で収入も得なくてはならない…。いきなり「生活のための音楽」と「やりたい音楽」の狭間に立たされた気持ちでした。

――そこから一気に自分のモードが変わっていったのでしょうか。

井上:徐々に、という感じですね。特に田村さんに対しては、「アーティストたるもの…」と言っていた手前、「仕事頂けませんか?」とは、なかなか言い出せなくて。そこでバックバンドのアルバイトを始めたり、クラブの箱バンにも参加しつつ、田村さんに「演奏の仕事とか、作家仕事があれば紹介してください…」と言うようになりました。

――その苦節を味わい、1985年には小泉今日子さんの「Someday」でプロの作曲家としてデビューしました。

井上:ある日、田村さんに「小泉の曲を書いてみる?」と言われたんです。態度こそ生意気でしたが、バンド時代から曲自体は評価して貰えていたので、とても嬉しかった。作曲家としてキョンキョンに合わせるのか、井上ヨシマサ感を出すのかというジャッジもしてもらいつつ、自分の書きたい曲が出来ました。一方で、お金欲しさに自分の夢を半分捨てたという見方もできるのかもしれないけど。

――立て続けに荻野目洋子さんの「スターダスト・ドリーム」も手掛けていたことも、そう映る要因だったのでしょうか。

井上:そうなんです。周りから「作曲家としても何曲かやっているんだね。でも、あなたのアルバムの方が良いですよね」と言われたかったのに、結果的に人に書く曲の発注に追われ、自分のアルバム制作などしている時間的余裕も金銭的余裕も無くなっていきました。これはAKB48の楽曲を作っているときも同じ感覚なのですが、自分も表舞台にバンドとして出て、インディーズでも歌手をやっていたぶん、歌い手の気持ちが分かったというのが大きいのかもしれません。若いくせに耳年増で、色々気を遣っていましたから(笑)。

――その目線を持ちつつ、音楽的に大事にしていたことは?

井上:ジャズのアドリブ感を大事にしていて、なるべく一筆で作曲していたし、多いときは1日に3曲も書いていました。ありがたいことに依頼を頂く件数も多くなってきたので、「あとちょっと待ってくれたら書き上がるので!」と、玄関先でクライアントに待ってもらったこともありました(笑)。アレンジも自分でやれるようクライアントには頼んでました。僕にとってアレンジは作曲の一部だと思ってますから。25歳で作家として賞を獲れたのですが、ここで「ああ、もうヤバいな」と思ってしまった。

――作家とアーティストとしてのバランスですか。

井上:そう。「作家“も”やってました」と言いたいがために始めたのに、意外に忙しいし、難しい。当時は事務所の人にクレジットカードを渡されて「ヨシマサは現金渡すとまともな買い物しないから、買い物はこれでやってくれ」なんて言われたりして。もちろんカードの支払いは自分の口座からでしたよ(笑)。だんだん自分のアルバムをつくることもなくなっていって、あんなに苦労して買った機材も少しずつ手に入るようになりました。周りからは良く見えていたのかもしれないけど、何だか自分の音楽における人生がめちゃくちゃになった気がしていました。

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――そこから何をきっかけにして抜け出したのでしょうか。

井上:あるとき「Save 4 U」と「I BELIEVE」という曲を書いたのですが、その2曲が自分を救ってくれました。音楽って人が生きていくパワーになるんだなと改めて実感した。それまでは、事務所の人やアーティストの喜ぶ顔が見たくて、ヒットチャートに上るような曲を書いてきたけど、それは自分を喜ばせるためのことではなかった。

――その後はインディーズでの歌手活動に一度重きを置いていったと。

井上:ここでの経験は非常に大きかったと思っています。作品を出すときに、1,000枚CDを刷ることに幾ら掛かるとか、知らない人に会ってプロモーションするのはこんなに面倒なことなのか、とか。今まで作家として受けていた仕事の前後には、こんなに大変なことがあるのかと実感した。「ミュージシャンはお金を稼ぐことに目が眩んじゃいけない」と言いながら、1枚作るのにいくらかかるのかも知らなかったから。一緒にやろうと言っていたやつも逃げてしまったし、借金も背負った。メジャーのプロデューサーやディレクターも、「ヨシマサ君、ちょっと芸術家肌になっちゃったんじゃないの?」と言って離れていった。もちろんそれでもそばに居てくれる人たちはいて、作家仕事が続けられました。インディーズの経験からクライアントとのバランスが自然に取れるようになった。「直されるにしても、ここは直しちゃいけないところだ」という線引きもハッキリ見えるようになったんです。そんなころに秋元康さんと初めて対面し、とんねるずさんの曲を制作しました。最初は自分のスタンスが理解してもらえずギクシャクしましたが、直ぐに誤解は解けました。その後 10年以上経って彼から「AKB48というアイドルグループの曲を書いて下さい」と言われました。発注内容は「一度秋葉原の劇場を観に行って、そこで得た印象からヨシマサ君が感じたままに書いて欲しい」というものでした。僕は彼女達の存在がサブカルチャーやアニメーション文化と合わさって秋葉原発信で世界に通じている感覚を得ていました。彼女たちも当時はチームAとチームKしかなくて、まだインディーズ時代だったこともあり、独特なものが出来るという確信はありました。何より秋元さんは「この曲の目的はこれ」と明示してくれるし、僕も自分の意見も遠慮なく言えたからやりやすかった。秋元さんがインディーズの場で全力投球する姿は感動しました。ただ、やればやる程金銭的な不安はつきまといました。だって僕が書いていたのは劇場曲で、CDを出す予定すらなかったんだから(笑)。と同時に、このグループが毎日進化していく実感を得ていました。

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