ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史 第七回(最終回)
『Baby Steps』を通じて知る、ベネット・フォディの“現在地” インディーゲームの20年が繋いだもの
『Baby Steps』に込められた思いを知る
『Getting Over It』のときとおなじように、『Baby Steps』は「うまくなろうとして失敗し続けること」をさらに洗練させたゲームだ。そして、実は間口の広いゲームでもある。プレイしてみると、『QWOP』ほど歩くのが難しくないとわかるだろう。坂を乗り越えるのは困難かもしれない。越えられるまでずっとがんばりつづけるのもありだろう。だが、「できるまでやる」以外の方法も用意されている。挑戦への執着を手放して、少し歩けば、別のルートを発見できるかもしれない。それは敗北かもしれない。だが、同時に障害を乗り越えられずに挫ける自分自身を“許す”ということでもある。
自分自身を許容できるようになれば、自分のフレームに当てはまらない他者とも和解できるかもしれない。
分断はつねにある。男性と女性、開発者とプレイヤー、ジャーナリストとゲーマー、メジャーとインディー、西洋と東洋、マジョリティとマイノリティ、〈真のゲーム〉と〈まがい物のゲーム〉……。そんなゲームにおける文化的対立に『Baby Steps』は“ゲーム的な処方箋”を提示する。「こういう楽しみかた“も”ある」という視点だ。既存の挑戦と上達的な要素を含みつつ、ユーモア混じりにオルタナティブな考え方のヒントをくれる。
その視点は、かつてゲームがフォディに与えてくれたものでもある。幼いころに、「ZX Spectrum」で、理不尽なまでに高難度な、しかし作家の個性が刻まれたゲームたちを夢中になってプレイした思い出。ゲームとは、彼に新しい見方や愉しみを教えてくれるものだった。
『Baby Steps』のラストシーンで描かれるのは、勝利や栄光ではない。『Getting Over It』のクリア後には開発者であるフォディとプレイヤーとの交歓が試みられたが、『Baby Steps』のエンディングに見られるのはそれと同根でありながらも別種の人間的な温かみだ。
ラストステージとなる山頂の手前、ネイトは林に囲まれた山小屋にたどりつく。これまでたびたび遭遇したムースというトナカイ人間の小屋だ。道中ずっとトイレを我慢していたネイトだったが、また強がりの癖がおくびをだし、「小屋のトイレを貸してくれ」と言い出せない。山頂を目指すといっていったんはムースに別れを告げるが、しかし、けっきょくは舞い戻って「トイレを貸してほしい」と懇願し、小屋の中に入れてもらう。
そして、そこに安住するようになり、ゲームはエンディングを迎える。
プレイヤーにとっては不意を突かれる終わり方だ。なにしろ、ずっと「到達すれば願いが叶う」とされた山の頂に向かい、そこで家へと帰還するとおもってプレイしてきたのだ。
しかし、ゲームはそうした「行きては帰りし」という叙事詩的な英雄譚、すなわち、物語が語るべきとされてきた構造への執着すら手放して終わる(*5)。
実はこのエンディングは、『Baby Steps』開発のはるか以前からフォディの頭のなかにあった。
遡ること2007年、『Too Many Ninjas』でゲーム開発者としてのフォディが世に出た年。フォディはTIGSourceフォーラムで一枚のピクセルアートを貼り、「これはどんなゲームになるとおもう?」と仲間たちに問うた。まだコードが一行も書かれていない、プロトタイプ以前のアイデアだった。
これにデレク・ユウがまっさきにレスをつけ、「裸の巨人が山間の村を襲ってくる巨大イエティを撃退していく拠点防衛要素のあるアクションゲーム」になるだろうと予想した。彼はこうつけくわえた、「巨人、村、イエティはそれぞれ自我、超自我、エスを表している」。
フォディはユウの精神分析的な解釈を気に入り、そのアイデアをこう推し進めた。
「プレイヤーは巨人を山の頂上まで登らせることになる。巨人は裸(つまり無防備)なので、登るほど寒気をおぼえていく。寒くなるにつれて体が縮んでいき、崖を飛び越えたり、山を登攀していくことが難しくなっていく。頂上に着くころには完全に無力(不能 Impotent)と化すけれど、代わりに頂上にある小屋に入り寒さをしのぐことができるようになる」
不能感、無防備な肉体、男性性、山登り、雪山、山頂の小屋。この説明は『Baby Steps』のコンセプトとエンディングを端的に説明しきっている。ほとんど予言じみているといってもいい。フォディは少なくともゲーム開発者として表に出てきてから20年近くものあいだ、このアイデアを内に抱えていたのだ。
触発したのはユウの何気ないレスポンスだったかもしれないが、それによってひきずりだされたのは疑いなくフォディ自身の内奥だ。それは、上記の要素が『QWOP』『GIRP』『Getting Over It』といった作品にそれぞれ少しずつ表出していったことからも知れる。
そうして、『Baby Steps』においてそのコアが、フォディの作家性の核心が“剥き出し”にされた。そういえるのではないか(*6)。
さらに注目すべきは、隠しエンディングだ。これは劇中のカットシーンを一定数スキップすることで(いじわるな仕掛けがしてあってスキップしきるのが大変難しいのだが)、観られるようになる。
雪山の山小屋で、ネイトとムースが外に出て腰をおろし、雑談を始める。おもむろに、ネイトの声を担当していたクッジーロが「もう声を作らなくていいよ」と告げると、ムース役の声優として裏にいたフォディが本人役で喋りだす。
そこからクッジーロとフォディの雑談が数十分に渡ってつづく。内容は、他愛のないものだ。お昼のサンドイッチがどうだとか、ゲームのカットシーンについての談義とか、「シルク・ドゥ・ソレイユのYouTube動画は面白いから観たほうがいい」とか。
会話を交わすふたりは、とてもリラックスしている。10年来の仲だ。ネイトとムースとして横並びに座っているかれらは、師弟というよりは、年の離れた友人に近い雰囲気さえ感じる。あるいは、家族。
エンドクレジットは知った名前ばかりだ。
メインの開発陣は『APE OUT』から引き続き、クッジーロとフォディとボックの三名。興味深いのは声優陣で、主人公のネイトはクッジーロ、ネイトの父親役はフランク・ランツ、母親役にはランツの妻のヒラリー、そしてその他の脇役たちはフォディとボックがそれぞれ声をあてている。
ゲームの吹き替えにプロでない声優を使うのはリスクが高い。ユーザーは喋りのぎこちなさには敏感で、その違和感はゲームへの評価へ直にかかわってくる。しかし、そのリスクと引き換えに(そもそもクッジーロとフォディの演技が素人離れしているのはさておき)、『Baby Steps』はユニークな親密感を手に入れた。
たとえば、劇中、フォディがあるシーンのくだらなさについ笑いがふきだしてしまう。ふつうならゲームへの没入感を削ぐ“キャラ崩壊”としてマイナスに響くところだ。だが、プレイヤーはふしぎと不快には感じず、素直に受け取れる。“素”を見せてくれたようなメタな親近感をおぼえる。わたしたちもまた、かれらのチームとして、家族として迎えいられている感覚を持つ。
他にも、音声チームのジャック・シュレシンジャーは元NYU生だ。コーディングの助っ人としてクレジットされているエリオット・クッジーロはゲイブの兄弟。実績の絵を担当しているジー・エン・リーはNYU卒ではないものの、ジェニー・ジャオ・シアとAPトムソンの『Consume me』のアートも担当していたり、『Tender』をはじめとしたケニー・サンのプロジェクトに何回か関わっていたりと、NYU人脈との結びつきが強い。
そして、プレイテスターたち。ダグラス・ウィルソン、エドマンド・マクミラン、スティーブン・ラヴェルといったかつてのTIGSフォーラム仲間に、APトムソンやケニー・サン、チャールス・プラットといったNYUの卒業生や講師たち……。
それは同時に、TIGSからNYUへ、ネットから大学へと、現在に至るまでフォディが刻んできた足跡でもある。あるいは、インディーゲーム史のたしかな一部とも。