平野啓一郎×バーチャル美少女ねむが語り合う、分人とメタバース どの私が死んだのか——人間の多チャンネル化と“個人の死”

エンタメとしてのロールプレイ――フィクションを生きるための分人
ねむ:ここまで、分人を「自分を理解するための概念」や「新しい自分を作るツール」、そして「他者・社会とつながるチャンネル」として語ってきましたが、もう一つ大事だと感じるのが、現実とフィクションの境界が曖昧になるという側面です。
バーチャルの世界では空を飛んだり、美少女キャラになったり、配信で現実ではできないことができます。性別も年齢も一旦脇に置き、抽象化された“アニメキャラ的存在”として生きるのが、VTuberだと思います。本人と視聴者が「この設定でいこう」と暗黙の上で理解した上で初めて成立するコミュニケーションです。
そして、VTuberに限らずメタバースではロールプレイが盛んですが、これも重要だと考えます。例えば、全員高校生のクラスメイトという設定で、中の人の性別や年齢の話はしない、というイベントが当たり前にあったりします。
現実での分人の切り替えから一歩進んで、「フィクションを生きるための分人」があるのではないか……と考えているのですが、フィクションのプロである平野さんは、現実とフィクションの境界が崩れていく光景をどう思いますか?
平野:文学の大きなテーマの一つは、「こうであればよかった自分」です。差別や貧困、家族関係、階級といった出自の制約から、望んだ自分に生まれなかった。そうした渇望を描いてきました。
その意味で、属性や経歴を一から選び直せるバーチャルは画期的です。ただ、それを“重たい自分探し”にしてしまうと苦しくなるとは思います。ロールプレイのように遊びの感覚で複数の自分を試し、事後的にしっくり来る自分に気づくくらいがちょうどいいでしょう。人生や設定を考える行為自体が、非常にクリエイティブでもあります。
ねむ:エンタメとの関わり方も大きいのかなと思うんです。小説やアニメ、映画って、基本的には観て楽しむものですよね。でも最近は、壮大なストーリーをじっくり追うよりも、ながら見しながら楽しめる作品が人気を集めています。登場人物がゆるく会話しているだけのアニメを延々と観るような、物語より世界観そのものを楽しむスタイル。
この流れが進むと、ただ外から世界観を眺めるだけでなく、「その世界の中に自分が入り込む」方向にも発展するのではないかと思っています。アバターとメタバースを使えば、自分もその登場人物の一人として振る舞い、フィクションの一部として生きられる。そうなると、現実=自分が属する一つの世界に対して、フィクションが主軸となる生き方も可能になっていく気がします。
平野:「ドラゴンクエスト」シリーズのようなロールプレイングゲームのように、特定の役割を通じて別の自分を体験する楽しさは昔からありますよね。ただ、今後は二つの方向に分かれていくと思います。ねむさんのように「自分がなりたい姿を模索して、自分で作っていく人」と、「用意された姿を様々に演じるのが楽しいと感じる人」です。
フィクションは基本的にマスプロダクトです。物語もキャラクターも決まりきっています。でも、不自由なようでいて、“自分じゃない他者”を通じて、むしろ自分を発見することもできる。それが文学や映画の醍醐味でした。
そう考えると、すべてをセルフプロデュースする楽しみと、魅力的なフォーマットの中で他者性に触れて自分を見つける楽しみが、どちらも存在していくのだろうなと感じています。
ねむ:新しい自分を見つけるためのフォーマットとしてのフィクションですね。たしかに、全部を自作するのは大変ですから。
平野:魅力的な物語やアバターデザインを一括でできる人が重宝されるかもしれないですね。
ねむ:私は姿も名前も声も世界観も自作していて、それを楽しいと思っていますが、たしかに一般の人が「全部やれ」と言われると重たい気はしますね。
平野:いきなり「豪邸に住んでいい」と言われる喜びに近い体験ですよね。完成された空間とアバターをまとう歓びを好む人もいるでしょう。そこから少しずつ自分流にカスタマイズしていきたい欲望が芽生えるかもしれませんし。
ねむ:ライトノベルで「中世ヨーロッパ的な異世界ファンタジー」が定番フォーマットになりつつあるのと近いかもしれませんね。「魔法使いならこう振る舞う」というお作法が共有されていれば、自分が失われることなく、お作法のもとで自分を出すことで、自己表現の敷居が下がります。そんな感じで、カジュアルに分人を楽しむ人も現れるかもしれませんね。
平野:小説家として読者の感想を見ていても、すごく好きな小説に出会った時、「こういう小説を読みたかった!」と思うものの、じゃあ読む前に「こういう小説を読みたい」と言語化できるかというと、難しいんですよね。与えられて初めて自分が本当に欲していたものに気づくことはかなりあります。そういう意味では、自分と違う人格を取っ掛かりとして与えてもらいたい人は、結構いるのかなと思いますね。
ねむ:メタバースでも、私のようにフルスクラッチのアバターを用意して使う人は実は少数派で、既製アバターをカスタマイズして使うのが多数派なんですよね。でも、それは別に妥協ではなくて、アバターを使うファッションのような考え方で、そこからコミュニティが生まれるほどです。なので、ゼロから作るより、いろいろなものを組みわせて自分を作る行為は、現時点のメタバースでもすでに起こっていることかなと思いました。
平野:日本の中学や高校には今でも制服がありますよね。そのスカートを少し短くしたり、ボタンを外したり、ズボンのラインを工夫したりすることで自分らしさやおしゃれを表現することもできます。
でも、最初から「全部自分でコーディネートしてください」と言われると、難しく感じる人も多いと思いますし、経済的な負担も大きいでしょう。制服という共通のベースがあるからこそ、小さな工夫で個性を出せるんですよね。
あらかじめ整えられたフォーマットやベースがあることで、少しのアレンジを加えるだけで自分らしさを表現できることは、ここからも指摘できると思います。制服はただ、地元の企業の独占によって高価になりがちで、それは問題だと思いますが。
ねむ:反抗期の女子高生が自分らしさのためにセーラー服を着ないかといえば、そんなこともないですからね。その意味では、私も「アニメの美少女キャラ」という画一的なフォーマットに便乗している点では反抗期の女子高生と一緒かもしれないですね。そもそも私たちは初めからフィクションの中に生きていていて、フィクションの要素で自分を表現しているのだ、と言えるのかもしれません。
平野:そうだと思います。私たちは常にフィクションから大きな影響を受けて生きていますから。結局、人間はどんなに自由に振る舞おうとしても、何らかの文脈やフォーマットからは逃れられないんですよね。むしろそれを前提にどう自分を表現するか、という話になるのではないでしょうか。
ねむ:メタバースでも実際に、セーラー服を着て集まる集会があるぐらいですから。フォーマットがあったほうが、人間は自分を表現しやすいのかもしれません。
平野:音楽にも、ジャズやロックといった一定程度決まったフォーマットがあります。だからこそ、プレイヤーはその枠組みの中で表現できるし、独自性を見せることができる。もし「完全にゼロから何か新しい音楽を作れ」と言われたら、大半の人にとってはとても難しい。無から創造するというのは天才的な一部の人にしかできない領域かもしれません。
ねむ:そう平野さんに言っていただけると、すごく勇気が湧きますね。私たちも積極的にフォーマットを活用していいんだって思えます。
今回のお話を通して、メタバースは分人主義が見越している世界の解像度を、一段階上げるためのツールになり得ると感じました。分人は目に見えませんが、アバターは“視覚化された分人”として説明がしやすい。複雑な分人の概念を具体的に伝えるためにも、アバターという存在は有効だと思います。今日は本当に勉強になりました。あらためて、平野さんのお話しを聞くことができて、とても嬉しかったです。ありがとうございました。
平野:こちらこそ。自分が考えたことが他の人の視点によって拡張されていくのは、本当に嬉しいことです。僕自身も新しい発見がたくさんありましたし、これからも考え続けたいテーマだと改めて思いました。本当にありがとうございました。



















