AIと短歌表現の現在 「歌のこころ」はどこにあるのか

 『犬猿』『偶然短歌』『花と歌』において共通しているのは、生成された短歌は誰が書いたと言えるのかという問題に言及できる点だ。こうした問題は生成AIを用いた芸術的活動全てに共通しているが、画像や音楽と比較して、短歌は表現の意図、つまり「歌のこころ」を想像して面白がる性質が強い。そのため、作家の所在がわからないことの気付きやすさ、それに対する違和感は他のメディアよりも強いだろう。

 話を多少広げてしまうが、画像生成AIによるイラスト生成(通称AI絵師)に対する批判と対照的に、AIによる文学は比較的好印象な受容のされ方をしている。『偶然短歌』はX(旧Twitter)にて5万人以上のフォロワーがおり、現在に至るまで投稿が続けられている。『花と歌』は、イベントにおけるアプリケーション利用者へのアンケートデータをもとに短歌生成モデルに対する印象の分析を行なったところ、51%が「喜び」、22%が「期待」となった。また、文学賞では「星新一賞」や「かぐやSFコンテスト」で、AIを用いた小説が入選・最終候補入りを果たしている。なぜ、視覚芸術と文学で受容のされ方がここまで異なるのだろうか?

 『犬猿』と『花と歌』の間には決定的な違いがある。前者は、短歌を生成するAIを擬人化しているが、後者はあくまでもAIをサポートツールとして見ているという点だ。この違いは、短歌が読まれる場合においても重要である。つまり、同じ生成AIによる短歌でも、まるで「人間が書いた」というストーリーの上に読まれるAI短歌と、そうした確認せずに読まれるAI短歌があるということだ。そして、現在受容されている多くの生成AI短歌は前者の方である。

 Scott. 2022.(※2)によると、人間がある文章を文学として感じられるのは、表現に人間的で有機的な感情("sentient")の痕跡が感じられるときだけである。AIが感情を持ちうるかは未だ確認されていないが、まるで感情があるかのように人間に錯覚させることはかなり上手になってきている。本当は感情を持たない機械であるにもかかわらず人間によって書かれているという仮定のもと、生成された短歌を読むという行為そのものが、AI文学の主な魅力のひとつになっているのだ。私たちは、AIが生成した(そこに感情の痕跡のない)短歌を、その文学的表現ではなく、あたかもAIが感情を持っておりAIを「作者」として見るという演劇的鑑賞方法そのものに楽しみを見出している。Scott. 2022.ではこうした鑑賞の姿勢を「as-if thinking」と呼んでいる。

 こうした「まるで人間かのように見る」という行為そのものを楽しむ姿勢は、たとえば癒し系ロボットと人のインタラクションにも共通している。ソニーによる犬型ロボットaibo
は犬のような見た目をしているが、そのメタリックな見た目から本物の犬そのものではないことは確かにわかる。であるにもかかわらず、aiboのオーナーはaiboをまるで犬であるかのように見て、コミュニケーションを取ろうと試み、意志や感情をそこに見出そうとする。それは決して、ユーザーはaiboが本物の犬であると騙されているわけではない。aiboを犬そのものとして見せることが出来ないという現代の技術的欠陥に対して、進んでその欠陥を埋めようとする人々の認識フレームを、MITの教授で社会学者のSherry Turkleは『イライザ効果』(※4)と名付けた。

 現在までのところ、AIによる生成短歌は「as-if thinking」のような、演劇的鑑賞方法によって受容されている。AIが生成した短歌を、AIが書いたという事前知識無しに単なる文学として読むことは、あまり望まれていない。短歌の作成そのものを人間以外にアウトソーシングする動きはいまのところ見られず、そうした使われ方はむしろ『花と歌』のような人間中心的なサポートツールとしての使い方に留まっている。

 AIによる短歌表現に対する「as-if thinking」に対して、AIによる画像生成を「as-if thinking」で面白がることは難しい。風景がなぜそのようであるか、写真がなぜこのように切り取られているのか、イラストがなぜそのように書かれたのか......そうした視覚的な表現における作者の意図と比較して、短歌や俳句といった詩の表現は、より直接的、能動的に作者の意図を読ませようとする。我々は画像というモーダルに表現の意図を感じようとするよりも、文章の意図を読むということの方が慣れているだろう。これは、画像生成AIが否定的に捉えられる要因の一つであるのではないだろうか。

 以上、自然言語処理による短歌表現について、現在までどのような展開と受容がなされてきたのかを概観した。LLM系のAPIが充実してきたため、詩的表現に焦点をあてたサードパーティー性アプリケーションはより一層増えていくだろう。しかし、そうしたアプリケーションによって、文学がAIにとって代わられるかというのは、技術的進歩とは関係のない問題なのかもしれない。それは書き手側、読み手側がどのようにAIを捉えているかで柔軟に変わり得るものである。古典的な手法でも『犬猿』のように擬人化した見方をすることもできれば、『花と歌』のように誰かが誰かのために歌を送るというシステムを支えるためのAIとして見ることもできる。誰が(もしくは何が)作者であるのかを決めるのは今のところ人間の役割であるが、今の音楽や画像のように、生成の品質が高まり表現として広く普及した結果、AIが作ったのか人間が作ったのかがわからなくなる可能性もある。実際、広告のコピーライトなんかはすでにAIにとって代わられてきているが、そのことを消費者が知る術はない。もし、人間に遜色のない短歌表現がAIに可能になったとして、それでも人は「AIが作った」というコンテクストを提示して欲しがるのだろうか。創造性が人だけのものではなくなったとき、初めて人間の創造性の本質が見えてくる。この作用こそ、今のところAIによる表現の最も面白いポイントなのではないだろうか。

参考文献
※1:Mehl, Scott. 2022. As If Poetry: Computer-Generated Tanka and Contemporary Japanese Verse. ASIANetwork Exchange A Journal for Asian Studies in the Liberal Arts 28 (1). https://doi.org/10.16995/ane.8145.
※2:浦川通, 新妻巧朗, 田口雄哉, 田森秀明, 岡崎直観, 乾健太郎, and Others. 2023. 短歌における自然言語生成の受容と有用性の検討. 研究報告自然言語処理 (NL) 2023 (13): 1–6.
※3:徳井直生. 2021. 創るためのAI: 機械と創造性のはてしない物語. ビー・エヌ・エヌ.
※4:シェリー・タークル, and 渡会圭子. 2018. つながっているのに孤独: 人生を豊かにするはずのインターネットの正体. ダイヤモンド社.

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