国家戦略としてオランダが取り組む夢のエネルギー「グリーン水素」への挑戦
マグニチュード2.4の地震に怯える人々のために、オランダは、国に富を与える天然ガス田を捨てて水素を選んだ。
というのも、その地震は天然ガス採掘が原因で発生するもので、周辺に住む人たちの家屋に亀裂を生じさせ、住民に精神的苦痛を与え続けているからだ。
フローニンゲンの地下には、大量の天然ガス田があり、1963年から採掘されてきた。だが1991年に、採掘が原因でマグニチュード2.4の地震が発生。その後も群発地震は続き、ついにはマグニチュード3.2が発生して家屋にヒビが入った。
地震大国の日本からしてみると、マグニチュード3.2で家屋にヒビだなんて大袈裟なようにも感じないわけでもない。ところが、オランダでは滅多に地震が発生しないばかりか、地質も日本とは異なるという。
採掘が続く限り、地震は発生するだろう。そしていつまた家屋がダメージを受けるかもわからない。フローニンゲンに住む人たちの心理的負担は凄まじい。そこで、オランダ政府は何年にもわたって話し合いをした結果、フローニンゲンにおける天然ガスの採掘をやめ、水素に移行することにしたのだ。
「すべての国民が安心して暮らせるように」
オランダ企業庁によるメディアツアーで、実際にフローニンゲンに行ってみた。家屋には、未だ修復されないヒビが入ったままだ。
「住民はいつまた発生するかわからない地震に怯えながら暮らしています。そのストレスを考えてみてほしいのです」と、オランダ企業庁プロジェクトマネージャーのシャーロット・バズインは言う。だが、その町は非常に小さく、住民も多いようには見えない。
ロシアのウクライナ侵攻によりガス代が高騰していたのなら、住民には避難してもらうなりして安全を確保した上で天然ガス田の使用を継続することもできただろう。オランダにはガス田が多く存在し、採掘すれば巨万の富を得られるし、なにより国民には安価にガスを供給できる。
しかし、人道的決定を優先し水素に移行する。移行は80年代末から90年代初頭にかけて始まっていたが、2020年には国家水素戦略が発表され、2050年までに気候中立を達成する具体的な数値目標が掲げられた。
現在、オランダでは石油や天然ガスなどの化石資源から抽出される水素の生産が盛んだが、この方法だと製造過程でCO2を排出するため、温室効果ガス排出量を削減するアプローチの中では「グレー」とされ「グレー水素」と呼ばれている。今後、CO2の回収と貯留ができることからCO2フリーとみなされる「ブルー水素」を経て、再生可能エネルギーを使って水素を抽出する「グリーン水素」へと段階的に移行していく政策だ。
グリーン水素への移行は、群発地震に悩むフローニンゲンの人々の精神的ストレスを軽減させるだけでなく、温室効果ガス排出量を削減できる上に、自国でエネルギーを作ることで資源をコントロールし、ロシアや他の地域への依存度を低くする利点もあるのだ。
水素に移行するために国民に理解してもらわなければならないこと
ガス田を段階的に閉鎖し、再生可能なグリーン水素を生産するインフラにするべく整備は進んでいる。
だが、水素に完全移行する中で、国民からの理解を得る努力もしていかなければならない。それは、水素の特性と、価格についてだ。
まず、水素が危険ではないことを広く認知してもらう必要がある。というのも、国民の中には、1937年にアメリカで発生した「ヒンデ ンブルク号爆発事故」に起因する水素へのネガティブなイメージを抱いている人たちがいるからだ。隣国ドイツで作られた飛行船ヒンデンブルグ号は着陸時に突如爆発して36人が死亡した事故を起こしている。使用されていた水素ガスに引火し、爆発炎上したと考えられているが、のちに原因は使用されていた塗料などあったのではないかと言われている。ところが、世界3大事故のひとつと言われるヒンデンブルク号爆発事故が人々に与えたインパクトは大きく、いまでも水素を危険視する人はいるのが事実だ。
しかし、どの物質にも特性があり、正しく管理されて一般の理解が広まれば危険ではない。たとえば、ガソリンは引火すると一気に燃え上がるが、スタンドにおける火器の使用を厳禁したり、静電気を起こさない対策をとったりすることで安全に使える。電気も不用意にさわれば感電してしまうが、コンセントに金属類を差し込んだり、手を突っ込まないといった教育を小さいうちから叩き込んだりすれば便利なものとして使える。水素も同じで、過度に怯える必要はないといえる。
もうひとつが、水素にすることで増える国民への負担への理解だ。政府としては、国民の安全安心を保障し、他国からの依存を減らすことはメリットが大きい。一方で、天然ガスよりも水素の方が高額になってしまうため、国民の負担は上がる。生活にゆとりがある人なら人道的決定を喜べるかもしれないが、生活に直結するエネルギーの値上がりに頭を抱える人もいるだろう。前述のオランダ企業庁プロジェクトマネージャーのシャーロット・バズインは「国民の幸福度に不平等があるなら、それがたとえ困難な道だとしても正していかなければならない」と言ったが、綺麗事にも聞こえかねない。
そこで筆者は、水素に変わることで負担が増える分を国民にどう納得してもらうのか質問してみた。
すると、前出のシャーロットは「補助金だろう」の可能性を口にした。ウクライナの戦争でガソリンの価格が上昇した際、政府は市場の価格に上限を設けた。同じような政策を水素にも適応すると考えている。
しかしここで新たな疑問が生じる。戦争の影響で一時的に高騰するガソリンと、インフラそのものを変えることで発生する水素とでは補助金を出すスパンも異なる。果たして補助金の提案だけで国民は納得するのだろうか。
すると、シャーロットは、「水素への移行は長い年月をかけて話し合われてきたことであり最終的には国民の憲法上の権利に基づいて決定されました」と言う。オランダの憲法のもと、すべての国民は同じ権利を有しており、特定の地域の人々が長期にわたって心理的苦痛を受けているのを放置すべきではないのだ。「国民の権利は経済モデルよりも優先される」という発言は力強く感じられた。
理解してもらうためには言葉を尽くして説明を
同じ質問を水素戦略ディレクターのパトリック・クヌーベンにもぶつけてみたところ「今は意向について説明段階にある」と言う。天然ガスから水素に移行する重要性を、政府からメディアへ、政府から市民へと言葉を尽くして説明している、と話す。また、完璧な解決策とはいえないまでも、「価格に上限を設けるのも効果的だろう」とも言った。実際、ロシアとウクライナの戦争に起因するガソリン価格高騰では、効果を発揮している
各家庭のソーラーパネルの普及率が上がってきていることもあり、移行に伴ってエネルギー供給者やサービスが様々なソリューションを作ることで、エネルギー消費量を減らすイメージも持っているらしい。
とはいえ、インフラ移行により負担増を誰もがすんなりと受け入れているわけではないため、説明の必要性は長期にわたると話した。
オランダは水素への移行をすでに始めている。時間を要することであるとは言え、移行が比較的スムースに感じられるのは、人道的決断の他にも、天然ガスを運搬するパイプラインを水素運搬にも使えることや、国民全員がロシアとウクライナの戦争によるガソリン代高騰の影響を受けて他国へのエネルギー依存率低下を目指す必要性を感じたからというのもあるだろう。
インフラを変えれば、人々の生活は変わる。街の中心から見た景色も変化するのだろうか。変わりつつあるオランダ。筆者は再びこの地に足を運んでみたいと強く思った。