ゲームと社会情勢は関係している? 『ゲームが教える世界の論点』著者・藤田直哉氏に聞く
差別や貧困、ジェンダー、LGBT、フェイクニュースなど、現代社会は解決を見ないさまざまな問題を抱えている。お互いの主張がぶつかり合うなかで、折り合いをどこでつけるのか。妥協点は一向に見えないままだ。
「あらゆる社会問題の解決策は、世界中で支持されているゲームのなかに存在する」
日本映画大学准教授であり批評家の藤田直哉氏は、2023年1月17日に出版された著書『ゲームが教える世界の論点』のなかでそう述べている。
ゲームカルチャーの現在地、今後の可能性を踏まえ、ゲームが示す人と社会の関わり方を、藤田氏とともに考える。(結木千尋)
なぜゲームの文化的価値は軽んじられるのか
――『ゲームが教える世界の論点』の発売、おめでとうございます。なぜ藤田さんはこの本を執筆しようと考えたのでしょうか?
藤田直哉(以下、藤田):1番の理由は、ほかのカルチャーと比較し、ゲームの文化的価値が軽んじられていると感じていたことです。私は文芸や映画に関する評論もおこなっているのですが、ゲームは少なくともそれらに対して圧倒的に評論として語られる機会が少ない。数千部しか売れていない小説の評論は出版されるのに、何百万本と売れたゲームにそれが存在しないのは、おなじカルチャーの1ジャンルとしておかしいと思ったんです。そういうものが世に出ないと、私たちはゲームという文化的創作物の意義や価値、問題点を理解しそこねます。ゲームが文芸や映画などと対等に語られるきっかけになってほしい。そう考え、この本を書き始めました。
――たしかに文芸や映画にくらべると、極端に語られる機会が少ないですね。
藤田:そうなんですよ。その感情がもっとも強くなったのは、2008年にSF作家の伊藤計劃(いとう けいかく)さんとお会いしたときでした。伊藤計劃さんは、『メタルギアソリッド』をSFとして高く評価していて、自身もシリーズに影響を受けながら、作品を執筆したそうです。そのときに伊藤さんは「3Dのゲームも評論がなければいけない」と仰っていた。ノベルゲームの評論などは、東浩紀さんらが盛んに手掛けていらっしゃったけど、3Dのゲームはあまり論じられていなかった。その宿題を、ようやく果たし終えた気分です。
伊藤さんで言えば、ご存知のように、伊藤計劃さんのデビュー作『虐殺器官』は、さまざまな文学賞にノミネートされ、ゼロ年代の日本のベストSF小説とも言われています。「文学」として、権威のある学会が研究論文を掲載したりもしています。一方で、『メタルギアソリッド』は当時、SF業界では賞を取らず、文学研究の論文も書かれていなかった。もちろん伊藤さんの作品は素晴らしいのですが、内容のクオリティと影響関係から考えて、変なことが起きているな、とは感じていました。その差が生まれた背景には、選考をする人たちの“ゲームカルチャーに対する疎さ”のようなものがあるはずです。そもそもゲームをカルチャーと認めていないからこそ、不勉強もまかり通ってしまう。そうした状況を問題視し、文筆活動を通じて発信し続けてきた先にあったのが、『ゲームが教える世界の論点』の執筆でした。当初から考えると、もう15年近くも経過しています。
――なぜそのほかのカルチャーにくらべ、ゲームは語られにくいのでしょうか?
藤田:私はゲームが基本的に集団芸術による創作物である点が影響していると考えています。たとえば、文芸や映画は主体的に制作に取り組んだ人、文芸であれば著者、映画であれば監督の存在が、その作品を取り巻く作家性として語られますよね。けれど、ゲームは集団芸術であるがゆえ、誰に作家性があるのかよくわからないんです。人気のシリーズのなかにはプロデューサーやディレクター、シナリオライターを務めた人が作家性を帯びるケースもあります。でも一般的にはそうではないですよね。
――そこが分断の遠因になっている、と。
藤田:そうですね。つまり、これまでに確立されてきた文芸や映画を語る方法論では語りにくいことが分断を生んでいると思います。また、プレイヤーごとに得られる体験が違うことも、語りにくさに拍車をかけています。小説や映画だと、作者の作った部分は結構はっきりしていて固定的なんですけど、ゲームはそうじゃないですからね。この語りにくさが、評論の少なさを生み、評論の少なさゆえに社会的に軽視されやすいことにつながっているのでしょう。娯楽性が強いせいもあり、文化的ヒエラルキーのなかでは自然と下位にランクされてしまうのが、ゲームというカルチャーなのだと感じています。単純に新しいジャンルは常にそうなりやすいので、ちゃんと意義づけや価値づけ、説得を行う努力をしないとそうなっちゃう部分もあるんですよね。
――ゲーム分野は、クリエイターの囲い込みが当たり前な業界体質である点も影響していそうですね。ビジネスパートナーを自由に選べる文芸や映画とは違い、企業内で制作が完結することが多く、それゆえに特定の作品の質や価値が属人的なものなのかを判断しづらい。
藤田:そのとおりです。特定のクリエイターが別のパートナーと制作した作品を世に出せれば、そのクリエイターならではの個性みたいなものが共通項として現れてくるはずです。けれど、人材の活用が流動的ではないばかりに、良い意味での属人性が見えてこない。その集団創作の創造性みたいなものをちゃんと論じられる評論・研究の方法論や語彙の整備を怠ってきたことは、語る側の瑕疵だと思います。
ゲームに社会情勢が投影されているのか。現実がゲームのように動いているのか
――藤田さんは『ゲームが教える世界の論点』のなかで、「あらゆる社会情勢はゲームに投影される」と述べています。なぜそのようなことが起こると考えていますか?
藤田:まず前提として、ゲームだけが特別ではない点があります。歴史を振り返っても、あらゆる創作物が社会的な題材をテーマとしてきました。たとえばハリウッドなら、MARVELの『ブラックパンサー』という映画が黒人差別の問題を扱っている。社会的なテーマをエンタテインメントで扱うことは、分野を限定しない大きな潮流であるわけです。そのなかにゲームもあったと考えるのが自然でしょうね。
また、なぜ直近になってそうした動きが顕著になってきたかという質問の意図であれば、ゲームにおける表現力が向上した点も理由になると思います。かつては、画面上をボールが動き、それを打ち返す程度の表現にとどまっていたゲームが、現代では壮大な物語を描けるまでになった。こうした技術的な進化は間違いなく、ゲームがそのほかのカルチャーとおなじ舞台に立てた要因でしょう。その他にも、作り手やプレイヤーの成熟、インディゲームの成功などの要因があります。
――この本で扱われているゲームタイトルは、明確なシナリオを持つものが大半でした。いわば、表現力の向上がダイレクトに影響するタイプの作品群です。一方でゲームのなかには、明確なシナリオがなく、表現力からの影響が小さいタイトルもたくさんあります。藤田さんはそのようなゲームと社会情勢の関係性について、どう考えていますか?
藤田:影響すると考えています。『あつまれ どうぶつの森』が良い例ではないでしょうか。「どうぶつの森」シリーズは、オンライン上で人と出会い、コミュニケーションを取ることで関係性を深めていくゲームですよね。大ヒットした背景にはもちろん巣ごもり需要がありますが、そのことがすべてではなく、コロナ禍で人と会いづらくなった社会からの影響もあるはずなんです。それは言ってみれば、「人々のつながりや社会の形成はこうあるべき」というイデオロギーの顕現とも考えられますよね。
――近年トレンド化している競技性の高いタイトルでもおなじことが言えそうですね。自己実現の一部であり、かつ承認欲求の発露でもある。
藤田:まったくそのとおりですね。本書ではそこに踏み込めなかったけど、人の行動などがそこで影響を受けるはずで、分析の仕方はあるかと思います。
――藤田さんがいま興味を持っている社会の動きはありますか?
藤田:ネット上の陰謀論をめぐる動きなどに注目しています。というのも、ゲームが分類されてきたサブカルチャーは元来、カウンターカルチャーなんです。体制や秩序に対する反発のようなものが、文化を醸成してきた側面がある。このことについて俯瞰すると、一連のSNSなどでの政治運動は“RPG的”であるとも見えるんです。レジスタンスの一員として巨大な体制派に立ち向かう。断片的な情報のなかから正しいと思えるいくつかを究明し、信じる真理へと迫っていく。最後には陰謀を暴いて世界の真実を解き明かすわけです。そういう集団的なレイドの快楽って、よく分かるんですよ。きっとみなさんもそういう作品を何本もプレイしてきたでしょう。陰謀論者の集まる掲示板を見ていると、すごくゲームみたいに見えたんです。
これまで社会情勢がゲームに影響するという方向性で話をしてきましたが、一つひとつの動きに目を向けると、現実がゲーム的に動いているという見方もできる。両者の相関性・類似性はとても興味深いので、そこに注意を促したかったというのが本書の目的でもあります。
――そうした社会運動の根本には、個人の政治的イデオロギーが密接に関わっているケースが多いと思います。一方でSNSでは、「正しいこと」よりも「自分の考えに合っていること」を優先して情報が摂取されているような状況もある。そういった問題に対し、ゲームが解決策を提示できるとするならば、どのようなことだと考えていますか?
藤田:対話がなくなり、感情的に自分の信念を優先し、それと異なるものを殲滅しようとする流れは、とても危険だと考えています。いわゆるポピュリズムだとか、ラディカル・デモクラシーと呼ばれるものですが、この先は危険だと思う。それを、SNSという、ゲームのような言論空間が促進しているのではないでしょうか。
もともとゲームは、プレイヤーを接待するシステムなんです。ギリギリ勝てるくらいの強さの敵がやってきて、それらに勝つことでプレイヤーは気持ちよくなれる。その世界にいれば、他者や現実、自分を否定したり批判してくるようなノイズには触れることなく生きていけるわけです。これはSNSもおなじです。自分と考え方をともにする人のみをフォローしていれば、自ずとノイズは減っていきます。そして異質なものに耐えられなくなる。ゲーマーだけじゃない傾向ですけどね。
そうならないためにできることは、自分とは違う考え方・価値観に触れることだと思います。相違を多様性として認められるようになることが唯一の解決方法と言えるかもしれません。その意味において、ゲームは主人公の人生を追体験することで、さまざまな世界をプレイヤーに見せてくれます。本書で扱った例でですが、主人公とは違う背景を持ったキャラクターと行動をともにしたり、敵対する派閥の両方に関与して意見に耳を傾けたりする。あるいは差別を受ける立場をロールプレイさせられる。なぜ作り手はプレイヤーにそうした体験を促しているのかと言えば、今の社会のあり方に懸念を抱いていて、ゲームを通じて解決を志向しているのだと思うんですよね。
――多様な意見に触れる機会を設け、その背景にある意図に意識的に向き合っていくということですね。
藤田:そうですね。歴史を振り返れば、演劇や小説や映画などあらゆるカルチャーがそうした役割を担ってきました。エンタテインメントを通じて、他者への共感や社会への俯瞰像を手に入れるための役割を持っていたんですよね。ゲームは、プレイヤーが能動的にその世界を体感できるという優れた点があります。勉強だとうんざりしてしまうようなことでも、ゲームを通じてなら楽しく自発的に取り組める。ここに、この社会の問題に対するゲームならではの解決を促す可能性があると感じています。単なる「啓蒙」じゃ、「上から目線の説教」で「退屈」と思われてしまいがちな時代ですからね。