年商44億円のおもしろ家電メーカー・サンコーのルーツは「Macintosh」にあった? 山光代表がコンピュータ黎明期に受けた"衝撃"とは

 東京・秋葉原の中央通りに不思議な家電ショップがある。店の外までたくさんの品物が並び、立ち止まる人も多い。棚を眺めてみればかゆいところに手が届くような製品から、クスッと笑ってしまう見た目のモノまでさまざまで、製品のネーミングも秀逸。「シメまで美味しい『俺のラーメン鍋』」「自分専用おとしずか冷温庫」「壁掛け殺虫灯『電撃蚊ミナリプレート』」……などなど。ユニークな製品をいくつも並べるこのショップは「サンコーレアモノショップ」。「世界最小の家電メーカー」を謳うサンコー株式会社の直営店であり、同社の数々の製品を実際に触って試せる店舗なのだ。

 同社代表の山光博康(やまみつ・ひろやす)氏は2003年にサンコーを創業、コンピュータの周辺機器などの輸入販売ECサイトから事業を始め、2015年に家電に参入。現在のサンコーの現在の年間総売上は44億円を超えるという好調ぶり。直近では6月に初の著書・『スキを突く経営 面白家電のサンコーはなぜウケるのか』を出版した。

 著作では山光氏の学生時代から現在に至るまでの経歴がとつとつと語られており、タイトルにもある「サンコーはなぜウケるのか?」という疑問にもまっすぐ答えている。特に見どころだと感じたのは山光氏が1980年代に体験した「パソコンとの出会い」の項だ。今回は山光氏へのインタビューを行い、このテクノロジーとの衝撃的な出会いや現在までの道のりを語ってもらった。

山光博康(やまみつ・ひろやす)

1965年、広島県生まれ。アップル好きが高じて秋葉原のパソコンショップに就職し、PC周辺機器の輸入販売に携わる。その経験を活かして2003年にサンコーを起業。急成長を遂げるサンコーを牽引している。

ーーまずは山光さんの簡単な経歴をうかがわせてください。

山光:生まれ育ったのは広島県・呉市です。市の中心地に出るまでバスで2時間近くかかるような山奥の町でした。勉強はまったく興味が持てませんでしたが、水泳と魚取りには熱中して没頭しました。高校は呉市内の私立高校に進学しましたが、そこで学校の先生になるという夢を持つことになります。大学受験には失敗してしまいましたので、横浜に出て予備校に通い、浪人生活を送りました。

ーー広島市や大阪を選ばずに東京方面に出たのには理由があるのでしょうか?

山光:すごく田舎だったので、都会に憧れがありました。大阪に行く人と東京に出る人は半々くらいでしたね。横浜では新聞社の奨学生制度を利用して新聞配達員をやっていました。朝夕の配達をすると、アパート代と朝昼の食事が出たんです。

 しかし、雨の日に配達すると、いまのようにビニール袋に包んだりしていないので、濡れた新聞を配ることになってしまいます。これがどうにも申し訳ないことをしているように思えてしまい、心が折れてしまって、奨学生をやめて仕送りで暮らすことになります。いよいよやることがなくなったので受験勉強に専念して、駒澤大学の文学部歴史学科へ進学しました。

ーー大学ではどんな学生生活を送っていたのでしょうか?

山光:大学に入ってもやりたいことがなく、中学校の社会の先生になれればいいや、くらいの目標しかなくて、具体的にやりたいこともないまま過ごしていました。そんなとき、1984年の6月ごろですが、なんの雑誌だったかは覚えていないものの、コンピュータの記事があって、当時発表されたばかりのApple Computer(現・Apple)のMacintoshが取り上げられていました。

1984年1月24日に発売された初代Macintosh。
Photo modificated by w:User:Grm wnr(CC BY-SA 3.0)

 

 当時、コンピュータはまだ研究者や技術者が扱う特別な機械で、個人が使う製品としてはようやく8bitの国産マイコン(マイクロコンピューター。個人が利用するような小型のコンピュータを当時こう呼んだ)が普及し出した、そんな時代でした。ワープロ専用機も登場してはいましたが、まだほとんど普及していなかったころです。マイコンでもワープロでも、画面の表示と実際の印刷が違うフォントだったり、改行の位置なども違ったりするのが当然でしたが、Macでは画面に美しいフォントが表示され、印刷でも同じ結果が得られる「WYSIWYG(What You See is What You Get:見たままのものを実際に作成出力する、という意味)」が最初から実現されています。WYSIWYGがすごいと言うよりは、それが当然あるべき姿なのに、それまでのマイコンでできていなかったということが、Macの先進性が高いなと感じられる点でした。

WYSIWYGの一例。太字やイタリック書体を画面で直接編集でき、印刷して同じ結果を得ることができる、ということは当時とても先進的だった。

ーーMacintoshに出会う前にコンピュータに対して持っていたイメージはありますか?

山光:普通に生活しているとまったく縁がないものでしたね。会社で電産処理に使うようなものでした。そんな時代に、その雑誌の記事では「アウトラインプロセッサ(見出し・段落などの表現機能がある文書作成ソフトウェア)」というものが提示されて、その考え方がすごく新しいなと思いました。大学で論文・レポートを作る時によさそうだなという印象でした。

 ただ、Macはまだ日本語のOSも出ていない時期でしたので、秋葉原に行ってとりあえず日本のメーカーのマイコンを買いました。私はNECのPC-6601を買ったのですが、「これじゃないなあ」という感じになりまして。その次にシャープのSuper MZ(MZ-2500)を買ったんですが、これもやはり違うと。

PC-6601「Demonstration on NEC PC-6601」
Super MZ(MZ-2500)「MZ-2500 システム読み込み」

ーー国産のマイコンとMacでは何が違ったんでしょうか?

山光:アプリの一つひとつがしゃれていない、作り込まれていないということを強く感じました。それに対してMacはOSのレベルからしっかり統合化されていて、アプリもつながっていて、マニュアルを読まなくてもすぐ使える点にも新しさ、楽しさというものがありました。結局Macじゃなきゃダメなんだなと思ったところに「漢字Talk(当時のMacintosh用OSの日本語版。US版は「System」という名前だったが、日本語版は「漢字Talk」という独立した名称を持っていた。後に「Mac OS 7.6」で全世界的にOSの名称が統一された)」が出て、OSが日本語化したので、夜勤のバイトに精を出し、頑張ってお金を貯めて、それを頭金にローンを組んで、当時64万8000円もした「Macintosh Plus」を買いました。

1986年に発売されたMacintosh Plus。「漢字Talk」をインストールできた。
Photo by MARC912374(CC BY-SA 3.0)

ーー当時のMacは自動車が買えそうな値段でしたが、やっぱり買えた時は嬉しかったですか?

山光:そりゃ嬉しいですよ!  9インチの小さな画面を備えた一体型のデザインも衝撃的でした。デザインは本当にすごくよくて、いまでも古臭く見えない。インテリアとしても通用するようなデザインというのはすごいですよね。

 こうしてMacを手に入れて、それを昼夜問わず弄り回す日々が始まるのですが、そのうちアップルが発売するという「LaserWriter」というレーザープリンターが欲しくなりました。定価が100万円近くもする代物でしたが、気がつくと買っていました。出力する必要がありそうなのは大学に提出するレポート程度で、年に2~3回しか必要ないのですが、そんなことも気にせずに100万円もつぎ込んでしまい、ひたすら文章やイラストを書いては印刷して喜んでいました。

Apple Computerが販売していたプリンタ、LaserWriter。Macと組み合わせて使うことで「WYSIWYG」な環境を得ることができた。
Photo by Apple(CC0 1.0)

ーーまさに「マイコン」が「パソコン(パーソナル・コンピューター。個人が占有・使用することを想定して作られたコンピュータ)」になっていく時代にMacintoshにのめり込んでいたんですね。学校はちゃんと通われていましたか?

山光:全然行っていませんでした(笑)。行っても公園で寝ていた思い出くらいしかありません。あと1単位落としたら留年というところでしたが、ギリギリで卒業はできました。

 そんなふうに学校を休んで何をしていたかというと、秋葉原でアップル製品を専門に販売する独立系のショップ「IKESHOP」のアルバイトとして雇ってもらえることになりました。当時、秋葉原にもアップル製品の販売ショップは正規品の販売店と並行輸入品の販売店の2店しかなく、そのうちの正規品を扱うほうでした。

 私は技術的な専門知識はありませんが、使い方にはそれなりに精通していますし、Macを買いたいというお客様の相談に応える程度の商品知識はありますので、販売説明はできます。こうしてアップルの世界に触れていられる喜びに浸りながら、週に5日間入ってアルバイトを続けました。

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