アーケード版『頭文字D』が世界でも人気のゲームになるまでーープロデューサーが語る、様々な課題をクルマへの情熱と愛情で乗り切った20年史

 漫画『頭文字D』をゲーム化したレースゲームシリーズ『頭文字D ARCADE STAGE』が、今年で20周年を迎えた。2002年に第一弾となる『頭文字D Arcade Stage Ver.1』を展開するまでには、セガ社内だけではなく、版元や自動車メーカー・パーツメーカーとの交渉など、様々な苦労があったという。

 今回は長年同タイトルでプロデューサーを務めてきた新井健二氏に、シリーズが20年で歩んできた足跡や、アーケードのレースゲームに与えた影響、筐体の進化について、いまなお『頭文字D Arcade Stage Ver.1』を設置しているレトロアーケードギャラリー「バック・トゥ・ザ・アーケード」にて、じっくりと話を聞いた。

困難を極めた「『頭文字D』アーケード化」実現への道

――プロジェクトの20年間を順を追って伺えればと思います。そもそも、このプロジェクトはどういうきっかけでスタートしたんですか?

新井:最初は『頭文字D』というタイトルありきのプロジェクトではなかったんです。2000年に当時僕らは『セガラリー』などを手がけるなかで、新たなタイトルとして『NASCAR ARCADE』というアーケードゲームを開発しました。『NASCAR』というのは、実際にアメリカ国内だけでやっている、オーバルコースをぐるぐる周るレースのことなのですが、『NASCAR ARCADE』はこのレースの版権を取って、選手とか実在のコースを使ったゲームです。当時、1999年くらいに新宿の西口でロケテストを実施すると、1日で10万円近くの稼働がありました。そこで手ごたえを感じて2000年に全国向けにリリースしたのですが、実際はそこまで売れませんでした。

『NASCAR』

――「売れなかった=ゲームセンターへの導入が少なかった」ということですか?

新井:そうです。いま思えばその理由はわかるんですけど、当時は本当に分からなくて。「こんなにいいゲームなのになんで売れないんだ」と思い、話を聞いていくと、みなさん「やると面白いんだけどね」と言っていて。

――プレイしていない、よくわからないゲームだからこそ、様子見をしようという店舗さんが多かったのでしょうね。

新井:そうかもしれません。その課題を踏まえて、次はどんなレースゲームを作ろうと悩んだ結果、次は国産車を使ったレースゲームを作ることにしました。実際に社内でのテストも好評だったので手応えを感じたのですが、そのままリリースするとまた「やれば面白い」で終わりかねないと思い・・。『頭文字D』とタッグを組めれば、店舗も前向きに導入するだろうし、プレイすれば絶対に面白いと思ってもらえると考え講談社さんにご相談をさせていただきました。

――なぜ『頭文字D』だったのでしょう?

新井:原作が好きだったという事もありますが、『頭文字D』のアニメでフルCGが使われていたのでゲームになった姿が想像しやすかったのと、原作の1巻で(藤原)拓海と(武内)樹が「バイト行く前にちょっとやっていこうぜ セガラリー」と話していたので、「しげの先生はセガラリーを知ってくれているし、それを作っている僕らならご一緒できるかもしれない」と思ったからです。交渉には、制作チームからの愛を込めたメッセージや仮のグラフィックを入れたVHSテープを作ってプレゼンしました。

――交渉はスムーズに進みましたか?

新井:いえ、今のようにゲームに対してそこまで理解のある時代ではなかったので、「ゲームになるってどういうことですか?」と関係各所の方から質問をいただいて、それに対してビデオを見せながら「この車がハチロクに変わって、この人物が拓海に変わって・・」と、説明に苦心しました。

――そのなかでも一番難関だったことは?

新井:しげの先生にご納得いただくまでの過程もそうですし、自動車メーカーさんとの交渉も苦労しましたね。当時はポリゴンが少なかったので「このタイヤの仕上がりではちょっと・・」と言われたり、「公道を閉鎖しているとはいえ、法定以上の速度で走るなんてとんでもない」とおっしゃる会社さんもいて。そんな経緯もあって、コースの中に実際の公道や原作にはない看板やスタート・ゴールのゲートを作ったんです。サーキットっぽく見せることで、ようやくご理解をいただけました。

――そんな逸話が! いまでこそ当たり前に様々なレースゲームに各メーカーが参加していますが、当時は苦労も多かったんですね。

新井:パーツメーカーさんもかなり大変でした。作品内に登場しているパーツメーカーさんは、すべて実在するのですが、全部の会社へ直接交渉しに行きました。そのときも「うちのパーツがゲームに出るってどういうことですか?」とやはり説明に苦労して。「レースに勝つことでポイントが溜まって、御社のホイールが使えるようになるんです」というのをお伝えさせていただきました。パーツメーカーの方たちは町工場の職人さんなので、車に対しての愛情がないとご理解をいただけないのです。僕の車のランサーエボリューションに乗ってお伺いし、自分がどれだけ車好きかを熱弁したうえで交渉させていただきました。

――新井さんたちの熱意と、メーカーさんたちの厚意があったからこそ実現したプロジェクトだったということがよくわかりました。実際に開発が決まってから、大変だったことはありますか?

新井:いまは当たり前ですけど、当時のレースゲームはコース上に障害物のようにCPUの車がいて、自車は20位からスタートして1位を目指すという形式がほとんどでしたし、磁気カードを使って途中でセーブができるという機能もありませんでした。カードリーダーも高額でしたから、社内からは「これにコストをかける意味がある?」や「こんな見づらい夜のクネクネ道を1対1って走るのはなぜ?」など厳しいご意見もありました。

――前例がなかったから、ですよね・・。

新井:当初は想定しているほど売れていなかったのですが、先に導入した店舗での評判が良かったこともあり、それを聞きつけた店舗から「うちも!」と注文が押し寄せたり、追加でもう1台というリクエストも多かったです。

――2000年当時のゲームセンターは、音楽ゲームを中心としたバブルが少し落ち着いたくらいの状況だったという認識だったのですが、新井さんの目からはどう見えていましたか?

新井:おっしゃる通り落ち着いていた時期でしたし、ドライブゲームに関しては冬の時代でしたが、『頭文字D Arcade Stage Ver.1』のヒットもあり、大きく盛り返したと思っています。ゲームセンターの雰囲気や文化はゲームの内容にも大きく影響していて、『頭文字D Arcade Stage Ver.2』や『頭文字D ARCADE STAGE Ver.3』では店内対戦機能や原作に基づいた乱入対戦を入れて、対戦ゲームの色合いを強くしたことで、これまでレースゲームに触れてこなかった方たちにも興味を持ってもらえたと感じています。あとは、磁気カードリーダーを取り入れたことでセーブができるストーリーモードがプレイでき、「また明日来よう、来週来よう」という来店動機にもつながったと思います。

――そのほか、シリーズのその後に繋がる良い反応はありましたか?

新井:海外からの反響は想定外でしたね。『頭文字D ARCADE STAGE Ver.3』はアメリカやヨーロッパを含めた全世界で1万台以上売れたんですよ。2003年〜4年にアメリカへ出張に行って西海岸の店舗をみたとき、若い方がたくさん遊んでいて驚きました。あと、韓国や香港、台湾でもたくさん導入していただき、韓国では『頭文字D ARCADE STAGE Ver.3』のときに現地のゲームセンター運営会社さんから「大会をするので決勝戦を見に来てください」と呼ばれて、気楽な気持ちで行ったら国営放送が来ていて驚いた記憶があります。

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