元VTuberが“VTuberの失踪”を題材に小説を書いた理由 「インターネットは最後までやりきっていなくなる人の方が珍しい」

“失踪VTuber”題材の小説はなぜ誕生?

綺麗に去る、VTuberの理想的な活動の終わり方

――直近ではキズナアイさんの活動休止、潤羽るしあさんの契約解除が話題となりました。“中の人”とキャラクターの関係まで描かれている『鈴波アミを待っています』にも近い話題ですが、塗田さんはこれらの話題をどのように見ていますか?

塗田:これはあくまで自分の趣味趣向ですが、「VTuberをやめてリアルでやっていきます」となると途端に興味をなくしてしまいます。そもそもリアルの配信者やYouTuberは興味の範囲外なんです。

 自分は基本的に“中の人”を見たくない。大きな話題になるとさすがに目を通しますけど「このVTuberの“中の人”は誰なのかな」とは調べません。本人も見せたくないから隠しているわけなので、それを知ると見方が変わっちゃうんですよね。執筆にあたっても、“中の人”には極力触れないように意識しました。

――最近では丁寧な「幕引き」が用意されて送り出されるVTuberが増えていますよね。ブームの初期は『鈴波アミを待っています』のように個人のVTuberたちがいついなくなるか分からない状況で活動を続けていたと思います。

塗田:いわゆる卒業みたいな形式が最近では確かに増えましたよね。1本の物語としてVTuberを見たときに、桐生ココさんの卒業、キズナアイさんの休止のような綺麗な終わり方はいい文化だと思っています。

 VTuberに限らずインターネットって、何かを作っている方が突然いなくなることは本当によくありますよね。むしろ最後まで何かをやりきっていなくなる人の方が珍しいと思うんですよ。

 たとえば2ちゃんねるでもネット小説でも、ずっと追ってたスレ主が突然いなくなることはよくありました。ファンとしても、まず心の準備ができてその区切りをつけてお別れできるので、ちゃんと綺麗に終わらせて去るというのは、理想的だなとは思ってますね。

 一方で鈴波アミが今後も活動を続けていったとして、どんどん年齢を重ねていって、最後にどうなるんだろうと悩んだんです。そこで、因幡はねるさんがよく言ってる「死ぬまでVTuberやって、最後はみんなで老人ホームを建てて一緒に住みたいな」という言葉が思い浮かびました。最後までインターネット的な存在であり続けて終わるのも、ファンタジーなら許されるんじゃないかなと。

『鈴波アミを待っています』はVTuberオタク賛歌である

――鈴波アミの活動が丁寧に描写される一方で、語り手はほとんど人間関係が描写されない登場人物でもありますね。そこはある意味で例えば『推し、燃ゆ』のような作品以上に空疎な印象です。

塗田:執筆の最初に相関図を書いたんですが、真ん中に鈴波アミを置きたかったんです。

 鈴波アミがいて、その周りに3人のクリエイター、さらにその周りにファンたちがいて、うちの1人が語り手。その相関図的には、語り手は完全にモブなんです。名前も決めてないし、僕の頭の中でも、彼がどういう人なのかは決まってないんです。

 ファンのなかには、切り抜き職人やファンアート職人といったクリエイティブな方もいれば、ただ見ている側の方もいるじゃないですか。今回の語り手は、あえてなんの特徴もない一般的な人物像をチョイスしたんです。読んでいただける方に共感してもらいやすいというのはもちろんですが、自分のなかでは「なにもできない奴が物語を解決するのが構造として美しい」という思いがありました。

 “なにもできない奴”が人にどう思われてもいいくらいの熱量でなにかを応援するのは、本当にすごいと思うんですよね。ある種の“青春”のようにも感じますし。ただのオタクであること、消費者活動に対する賛歌のような要素は『鈴波アミを待っています』にも大いに込めました。

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