絶対実現できないと思われた「ソラ参戦」 そこに至る『スマブラ』と桜井政博の「参戦史」を追う

「岩田さん」と2人で原型を作り上げた初代『スマブラ』

 そんな桜井、そしてハル研究所は、NINTENDO64という新たなステージへ挑戦する。NINTENDO64は任天堂が1996年に発売したゲームハードで、任天堂にとっては初めて本格的な3Dゲームを運用可能なマシンにして、1994年に突如Playstationをひっさげてゲーム業界へ参入した巨人・ソニーへの対抗馬でもあった。倒産時には任天堂から資金援助も受けたハル研究所にとっても、ここは3Dを活かした新作で援護したい意欲が強かっただろう。

 当時、ハル研究所が用意したプロジェクトは2つ。1つはアクションアドベンチャー、もう1つが桜井政博が1996年に企画書を仕上げた格闘ゲーム『竜王』である。当時『竜王』はまだ棒人間が戦うもので、竜王という仮名も、ハル研究所の会社が山梨県竜王町にあり、ゲームの背景に富士山の映る竜王町の風景の、桜井自ら撮影した写真を使った……というだけの、ごくシンプルなプロトタイプだった。

 『竜王』は桜井が企画と仕様、デザイン、モデリング、モーションを担当し、そしてプログラムを桜井の上司だった岩田が書き上げる、いま思えばとてつもないドリームタッグで仕上げ(しかも当時、2人には他にメインの仕事があったため、『竜王』の作業は土日や深夜で進められていたという)、最終的にハル研究所の主力タイトルとしての開発も決定される。

岩田
当時は、いろんなソフトを手がける一方で、
本当に自分たちがつくりたいもの、
アウトプットというのを模索している時期で。
そんなときに、桜井くんが
なにかおもしろいものを考えているというので、
「それはさっさとつくって動かしたほうがいい」
ということで、
「オレがプログラム書くから、企画、書きな」
と桜井くんをうながして。
https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/rsbj/vol7/index.html

 すでにこの『竜王』から、体力ゲージが存在せず蓄積ダメージに比例した「ふっとび」が生み出すスリル、2人に限らず最大4人が織りなす大混戦、平面に限らない多様なステージが生む心理的駆け引きなど、徹底して「格闘ゲームのアンチテーゼ」というゲーマー・桜井イズムが発揮された意欲的なゲームデザインは実現していた。

 ただ『竜王』に限った話でもないが、どんなに優れたゲームデザインを内蔵しても、実際に手に取ってもらえなければ理解もされないのがビデオゲーム開発の常。すでに格闘ゲームは飽和状態にあり、カプコンの『ストリートファイター』をはじめとした名作、そして名キャラクターたちが認知されている中、全く新作の、それもコンソール向けの格闘ゲームがそのまま注目されるかは大きな賭けだった。

 そこで、桜井と岩田は任天堂のキャラクターに参加してもらう格闘アクション、いわば『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』なら、他の格闘ゲームにも対抗できるのではないかと考える。たしかに、マリオやリンクたちが同じゲームで戦う姿は、当時の子どもなら誰だって想像した夢のゲームだ。しかしこれは、常識的に考えればほとんど不可能といえるほど難しい理由があった。

 まず、ハル研究所は任天堂の一部署でもなければ、任天堂の子会社でもない。あくまで1ゲーム企業でありながら、もっぱら任天堂向けのゲームソフトを作る、いわゆる「セカンドパーティ」という位置づけだ。その上、ハル研究所は一度倒産し、その際に任天堂から資金援助を受けている。まして、マリオ、リンクといったキャラクターたちは1990年時点で世界的な任天堂の顔であり、しかも社内のそれぞれ異なる部署が開発を担当していた。実際、任天堂とハル研究所がどのような力関係だったのか定かではないが、客観的に考えればハル研究所の立場で、任天堂のキャラクターを「貸してもらう(岩田の表現)」ことがどれほど難しいか、想像に難くない。

 しかも『スマブラ』は「ニンテンドウオールスター!」とあるが、参戦ファイター全員が任天堂だけのキャラクターでもない。例えば、サムスは『メトロイド』を原典とするキャラクターで、『メトロイド』はインテリジェントシステムズという任天堂のセカンドパーティの作品だ。

 ほかにも、ドンキーコングのゲームを当時開発していたのはイギリスのレアであるし、極めつけにピカチュウ、プリンはあの『ポケットモンスター』が原典である。すでに『ポケモン』はアニメ化を含め社会現象級の大ヒットとなり、販売の任天堂とクリーチャーズ、そして開発はゲームフリークが行っていた。つまり任天堂をもし説得できたとしても、これら他の会社も説得しなければいけなかったのだ。

 そのうえ、格闘ゲームというジャンルも少なからず抵抗があった。たしかに格闘ゲームは当時最も人気あるゲームジャンルだったが、主流はアーケードにあり、コンソールと比べれば大人向けな印象もあった。リンクやサムスはともかく、ピカチュウやマリオまで同じ世界観の中で殴りあうこと自体、いまでいえば「解釈違い」のような違和感がぬぐえなかったのだ。

 そこで桜井と岩田は企画実現に向けて前例のない困難へ挑む。桜井は企画書を見せて相談するのではなく、(発売できるかもわからないのに)マリオ、サムス、フォックス、ドンキーの4人も動かせるデモ版を制作し、「遊べばわかります」と言わんばかりに宮本茂に直談判。「ああ、これ、遊べるね。悪くないね。」と評価を受け、宮本茂の後押しを得る。岩田もまた任天堂やそのセカンドパーティを含む企業との深い繋がりを駆使し、粘り強く交渉を重ねた。

 また懐疑的なファンに対しては桜井自ら「スマブラ拳」というサイトを立ち上げ、当時としては異例の開発者が自らフランクにファンと交流してコンセンサスを引き出す。これは現在もYouTubeで100万人近くが視聴する「〇〇のつかいかた」に引き継がれた、桜井氏の姿勢といえる。

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