最後の一撃は、せつない。ーープレステ2時代の名作『ワンダと巨像』は徹底的に無駄を削ぎ落したゲームだった
開発者が切り捨てなかった”余白”について考える
じつは、『ワンダと巨像』はPlay Station 2のソフトでありながら”シームレスに繋がる一枚のフィールド”を実現した稀有な作品でもある。これは昨今のオープンワールドゲームでも見られるマップ構成だが、視認できる場所のほとんどへロード画面を挟まずに移動できるのは当時としては画期的だった。フィールドは起伏に富み、あえて巨像と関係のない場所を探索するのも面白い。
興味深いのは、このようなフィールドの要素を開発者が切り捨てなかったことだ。本作は基本的に無駄を削ぎ落す方向に舵を取っているようにも思えるが、何故かフィールドは広大に確保し、本筋と関係がない場所まで行けるように設計しているのである。
また、ワンダの愛馬である「アグロ」にも、無駄と捉えられそうな要素がいくつかある。たとえば、 本作ではR1ボタンを押しながらスティックを入力することでアグロに立ち乗りしたり、横腹に掴まったりできる。これらのアクションは巨像に飛び移る際などに有効な場合もあるが、使用しなくても十分攻略することが可能だ。さらに、本作におけるアグロの操作については賛否が分かれる部分にもなっている。アグロはお世辞にも操作性が良いとは言い難く、プレイ開始直後は思った方向に移動してくれないことも多かった。
では、開発者は一見無駄にも思えるこれらの要素を、何故残したのだろうか?私はこの部分にこそ、『ワンダと巨像』が最高のゲーム体験を我々にもたらした要因があると考えている。
本作のキャッチコピーは、「最後の一撃は、せつない。」という巨像を倒す瞬間を如実に表現したものだ。確かに、巨像はさながら生き物のように躍動し、弱点を攻撃されると苦しそうにうめき声を上げることもあり、倒すことを躊躇うプレイヤーは多いだろう。しかし、開発者が真にプレイヤーに体感して欲しかった「せつなさ」とは、ワンダの少女に対する思いの強さや禁忌を犯す背徳感、孤独感といった感情ではないだろうか。そんな「せつなさ」をゲーム体験として昇華するためには、ワンダとプレイヤーの心情をシンクロさせる必要があるはずだ。
たとえば、古えの地は広大で、果てまで走っていけば静かな海岸にも辿り着ける。ひたすらに16体の巨像を倒す過程で、ワンダは次第にぼろぼろになっていく。それでも、時には道すがら耳にした潮騒に導かれ、海を眺めて身体を休めることもあっただろう。多くを語らない本作のシナリオの中で、プレイヤーは巨像を倒しながら自分だけの物語を構築していくのである。そのためには、古えの地が虚構のものであってはならず、シームレスで広大なフィールドを築いたのは必然といえるのかもしれない。
アグロについて言及すれば、確かに操作性は良くない。しかし、筆者はこの操作性の悪さこそが本物の馬を操っているような感覚を与えてくれたと肯定的に捉えている。孤独な戦いの中で唯一ワンダの味方であり続けるアグロは、単なるゲームのオブジェクトではなく、本物の馬として”生きている”必要があったように思うのだ。
つまり、本作が切り捨てなかったこれらの要素は、プレイヤーの想像力を掻き立て、ワンダが抱えた「せつなさ」を共有させるための”余白”だったと考える。これらの余白があったからこそ、『ワンダと巨像』をプレイした一人ひとりに物語が生まれ、決して忘れられない体験を提供しているのではないだろうか。実際の開発者の意図はわからないが、本作はこんな想像をしてしまうほど私の心に残り、また数多くのゲームファンに衝撃を与えたのは事実だ。
『ワンダと巨像』は2018年2月8日にPlay Station 4向けのフルリメイク版がリリースされている。こちらは原作の空気感を忠実に再現したリメイクとして非常に評価が高い。本稿を読んで少しでも興味が湧いた人は、ぜひ攻略情報などを見ずにプレイしてみてほしい。きっとあなたにとっても忘れられない体験になることだろう。
■坂田憲亮
愛知県の田舎で自由気ままに暮らすフリーライター。アプリやゲームなどエンタメ分野をはじめ、国内大手の各種メディアにて記事を執筆中。取材から撮影、Webデザインまで行う自称・マルチクリエイター。