最後の一撃は、せつない。ーープレステ2時代の名作『ワンダと巨像』は徹底的に無駄を削ぎ落したゲームだった

 あなたには、ゲームに対する価値観を塗り替えられた瞬間はあるだろうか。私がその瞬間を味わったのは、初めて『ワンダと巨像』をプレイしたあの日だった。そのあまりにも尖った作風を目の当たりにした当時の私は、「これは一種のアートなのではないか」という感慨さえ覚えたものだ。今回は、ゲーム史に名を残す不朽の名作といっても過言ではない『ワンダと巨像』の魅力を紹介し、また本作が何故これほどまで愛されているのかその理由についても考察する。

巨像との戦闘はアクションパズルとしての側面を持つ


 『ワンダと巨像』は、ソニー・コンピュータエンタテインメント(後のソニー・インタラクティブ・エンタテインメント=SIE)が2005年10月27日がリリースしたPlay Station 2向けのアクションアドベンチャーゲームだ。テレビCMの「最後の一撃は、せつない」というキャッチコピーが印象的だったため、名前だけは知っているという人も多いだろう。

 本作では、主人公の「ワンダ」を操作して広大なマップに散らばる16体の”巨像”を撃破するのが目的となる。しかし、ストーリーの描写は極めて少ない。「魂を失った少女を生き返らせるために16体の巨像を破壊する禁忌の儀式に挑む」というワンダの動機こそ描かれてはいるものの、二人の関係性は一切明かされておらず、プレイヤーの想像に委ねられている。多くを語らず謎を残したストーリーも本作の魅力だ。

 さて、肝心の戦闘部分だが、本作の巨像との戦闘にはアクションパズル的要素が含まれているといえるだろう。主人公のワンダは特別な能力があるわけではなく、武器も短剣と弓しか所持していない。頼りにできるのは己の知恵と体力ぐらいのものだ。それに比べ、巨像は山と見紛うほどの巨躯を持ち、火球や光線を飛ばす魔法じみた攻撃をするなど圧倒的に不利な状況で戦わなければならない。また、巨像には弱点があるものの、弱点以外への攻撃はほとんどダメージが通らない。加えて、弱点の多くは巨像の頭頂部など通常では到達できない場所にあるのだ。

 しかし、巨像の身体には凹凸や毛などワンダがよじ登ることができる部分が存在するほか、周辺の地形や巨像の行動パターンを利用することで弱点まで到達できる場合がある。そのため、本作の戦闘には「巨像の特徴や行動を分析し、弱点までよじ登る方法を見つけ出す」という謎解きのようなプロセスが含まれる。このゲームデザインにより、『ワンダと巨像』はアクションパズルの側面を持つといえるだろう。

 加えて、本作の象徴ともいえるのが「握力ゲージ」だ。握力ゲージは巨像に掴まっていると徐々に消費され、ゼロになると振り落とされてしまう。単に巨像の身体をよじ登るのではなく、握力ゲージが切れないよう上手く管理することもこのゲームの醍醐味だ。

無駄を削ぎ落したゲームデザイン


 『ワンダと巨像』は、徹底的に無駄を削ぎ落したゲームデザインが印象的だ。先述した通り、本作では広大なフィールドを駆け巡り16体の巨像の撃破することが目的となるが、じつは巨像以外の敵は一切存在しないのである。また、一部のムービーを除き、NPCキャラクターも登場しない。このような舞台設定は、ワンダの戦いが孤独なものであることを殊更に印象付ける。

 さらに、UIも極力簡素にまとめられており、体力や握力はシンプルなグラフィックのみで表現され、数値などは一切表示されない。一見不便なようにも思えるが、プレイしてみると本作にはこれ以外の情報が必要ないのだと理解できる。むしろ画面から余計な情報が消えるため、よりプレイヤーの没入感が高まっているといえるだろう。

 加えて、BGMの使い方も印象的だった。本作ではフィールド探索時に一切BGMが流れず、風の音や愛馬の蹄が大地を蹴る音ばかりが聞こえるため、薄曇りの天候も相まって寂しげな雰囲気がある。しかし、巨像との戦闘が始まるとこれが一変し、厳かなBGMが再生されるのである。巨像の強大さを印象付けるためにあえて探索時のBGMを使用しないという工夫は、単純ながら効果が絶大だ。さらに、ワンダが巨像の弱点へ到達した際には希望に満ちたBGMが流れるなど、プレイヤーの心情とダイレクトに繋がる音楽的演出も見事というほかない。

 徹底的に無駄を削ぎ落し、巨像と戦うという目的だけを与えられたゲームシステムは、この作品を単なるアクションゲームに止めない一因だ。