5人の識者が語るARGの進化史と、ポスト真実の時代における“ゲームと物語のあり方”
コロナ下のARGと、未来のARG
城島:コロナ禍において、まずそもそも、それ以前よりWebとの関わりが大きく変わったと感じます。ZoomやTeamsといったツールを使っている人は多数派になった感がありますし、Webとの距離感も大きく変わりました。学校でも塾でもお年寄りにとってもZoomが普通の単語になって、それこそ「万年筆」とか「バンドエイド」とかと同じレベルの単語になりましたよね。そういう時代にフェイクやARGを潜ませるには、より慎重に、より工夫が必要です。
また、いわゆるライブコンテンツに対してもWebがどんどん入ってきました。ドローンがあっという間にドローンを扱うプロを生んだように、この領域でも専門のプロが生まれると思います。Web専門役者とか、Webディレクターとか。
実際、今はZoom演劇もそれそのものの新鮮さで価値を担保していますが、何度も繰り返されれば「これって録画でいいんじゃない?」ということになっていくでしょう。そういう意味ではZoom演劇が戦う相手は映像芸術だし、その視点での独自の工夫の必要になっていくと思います。そして、そこで実際にエンターテイメントを作っていく専門家たちがどうドラマを扱うのかは、今後のARGとも関わってくるかなと感じています。
あと、Web独特のスピードというものにも注意が必要で、鮮度が落ちるのがとにかく早いですよね。「2ヶ月前には新鮮だったんだけどね」ということは日常茶飯事ですし、今後この速度は加速するのではないかと思います。こんな感じで、Webが身近になった時代は、人間の社会の方向転換とまでは言わずとも、革新的な変化を迎える時代だと思うのですが、そのあたり皆様はどうお考えですか?
三宅:長期的に言えば、CGとAIを駆使した「インタラクティブなフェイク」も出てくると思います。そうなると「これってAIでいいじゃない」は起り得るでしょうね。ただ、Webというのは「場がない」という難しさがあります。寺山修司の『ノック』が街という場に出ることで演劇空間を広げたように、ARGは場所の持つ力を利用するところが新しかった。リアル脱出ゲームでもこれは同じです。
でもそういったリアルイベントがデジタルに戻ってくると、本来ARGが持っていた現実空間という文脈が使えなくなって、唯一担保されているのが役者とのZoomを介したリアリティでしかない。今は役者がカメラを見てユーザーをぐいぐい引っ張っていくという形でやれていますが、まだまだこれはプリミティブな形であって、これからWeb越し・Zoom越しのリアリティの多様性をどう確保するかは重要な課題になるのではないでしょうか。
えぴ:もっとも、ARGも言うほど「リアル」という言葉は重要ではないんですよね。ARGが発展したアメリカは国がとにかく広いですから、「現地のどこそこで会おう」は成り立たないんです。もちろん、GPS座標で公衆電話を指定して云々といった例はありますが、ARG体験のメインはWebであり、そこでリアルタイムで物語が進んでいって、登場人物とインタラクションできるというのがポイントです。「ストーリーがリアルタイムでWebでつながっている感」が、ARGのコアのひとつなんです。ただ、そうはいっても「リアル」のパワーというものはあって、この点についてこれからの時代どうしていくかは、大きな課題ですね。
三宅:現実空間の地名や場所を持ち出して、それが本当に実際の場所とリンクすることで、時間と空間が一致して物語の世界に入る、仮想と現実が交差する、というのはリアルイベントの大きな魅力だと感じます。架空の街で起こる、架空のコンテンツではないんですよね。
石川:自分も現実の場所というものの強みはあると思うのですが、一方でその場に行っていなくても、その場のリアル感は得られるとも感じています。ネット越しに「今ここでこういうことが起こっているぞ」という情報が流れると、そこには確かなリアル感があるんですよね。
城島:それはありますね。「おうちソクたび」さんとコラボしたWebでのツアーがあるんですが、これは「実際にそこに行かないんだけど、時間を共有できた感があった」「現地を近くに感じることができた」と、非常に評判のよいものでした。webでもリアルでも、場の持つ力について言うならば、「日常からかけ離れているから面白い」というところはありますね。
『ミステリーナイト』がヒットした頃、シティホテルは若い人が行く場所じゃなくて、富裕層や政治家、芸能人が利用するような場所でした。少なくともそういうイメージでした。そのような場所で探偵ごっこをする、というのが受けたんですね。なので豪華客船を舞台にしたり、怪しげなマンションの一室を舞台にしたりと色々やっていったんですが、場所に頼ってやってきたことが、だんだん通用しなくなっていったのも事実です。
物語を盛り上げ、参加者の感情を盛り上げるために非日常的な場所を使おうにも、場所はもう使い尽くした感があるんですよ。事実、『ひぐらしのなく頃に』の参加型イベントで使った小学校は、「そういう場」として超有名になってますが、そういう場所って開拓するのがすごく大変で。ウチが使ったところは、後で謎解き系の人が使い倒すんです(苦笑)。
そうやって「場所はもう無理」となったとき、次に出てきたのが「時間」でした。例えば「夜中じゅう遊ぶ」ということになると、簡単には想像がつかないんです。そして参加者は、想像できそうででできないことに心を奪われます。宝箱がそこにあることは分かってるんだけど、開けてみないと中身は分からない感覚と同じです。
私は企画を作るにあたって、この宝箱感を大事にしてきました。何で驚かし、何で満足させるのか。ここに心血を注いできたんです。でも、Webではどうか? Webの宝箱は何なのか? これがまだ見いだせていないんですよね。だからイベントをやるにはやってみたけれど、次に行けない。しかも現代は、旧来型のインターネットの手法だけではなくなったという難しさもある。この状況で、Webではどうすればいいのか。この宝箱はいずれ見つけて開くことができるものなのか、永遠に砂の中を探すものなのか、現状ではちょっと見えないですね。
石川:「日常からかけ離れているから面白い」という時間や空間について、分かりやすい話として自分がゲーム企画で注意していることが、「それは非日常か非現実か」という点です。この言葉はよく混同されやすいのですが、「非日常」は現実にあるが一般の人がなかなか体験できないもの、「非現実」はそもそも現実には存在していないものです。非日常は、存在しているから想像できるんです。普段あまり行くことのない高級シティホテルとかは、日常とつながっているけれど、なかなか体験できないものです。一方で非現実は、想像するのが難しい。「あなたは宇宙人に誘拐されました」と言われても、即座にイメージはできません。
非日常はあくまで日常の延長線にあるので体験もイメージしやすく、参加したくなります。ただこれも最近は城島さんがご指摘のように「非日常であり、体験できていないこと」が減ってきたんですね。そこで良いヒントになると思ったのが『3D小説 bell』です。せっかく竹内さんがいらっしゃるので、この作品については竹内さんから解説をお願いします。
竹内:私の説明は検索すれば色々な所にあるので、まだ話し足りなそうな、えぴくすさんの視点で説明してみませんか? えぴくすさんは企画の隅から隅までご存知ですし。
えぴ:えっ(苦笑)。では自分が説明します。3D小説は7月24日から8月24日までの一夏の体験を扱っていて、少しずつ更新されるWeb小説がストーリー的な軸となり、そこにリアルタイムで干渉できたというのが基本のフォーマットになっています。まずこれが独特ですね。
また、「謎解き」が盛んになっていることを踏まえているのも特徴です。ゲームって、プレイヤーに「これを乗り越えてください」と、やるべきことを提示しなくてはなりません。RPGで例えれば敵を出す必要があるわけですが、「謎」はその敵に相当します。とはいえ、常に物語上の必然性をもって「謎」は提示されます。謎解きゲームではなく、小説ですので。
しかるにそうやって示された「解くべき謎」をみんなで解いていくと、「現地に来い」という話になって、実際に現地に行ってみると現実にアイテムが置かれていたり、あるいは小説の登場人物がいて、その人物に合い言葉を言うとアイテムがもらえる、という展開になります。このように、「物語が現実に出てきた」というだけでも、国内では少ない事例なんです。
盛り上がった場面のひとつを、もう少し詳しくご紹介しましょうか。新大阪のあるマンションの住所と鍵の番号を、秋葉原で知ることができる、という展開があるのですが、この情報がWebで共有されたんですね。
参考1:新大阪マンション家探しのプレイヤー反応まとめ
参考2:※小説のキャラクター「宮野」のアクターがマンション家探しに紛れ込み、作中の重要アイテムを持ち去る。その事に他のプレイヤーが気付いた瞬間に更新された記事。
そこで大阪の参加者が実際にそのマンションに行ってみるわけですが、ここにはリアルタイム性やリアルの現地というリアリティがあるだけでなく、東京と大阪という空間を分けることで色々なプレイヤーが交互に「勇者(=注目されるプレイヤー)」になれるというポイントもあります 。
で、実際にマンションの一室に入れて、本当にプレイヤーが家捜しできるんですが、部屋に入るとニコ動の生中継をしているカメラが回ってまして、ネット上のプレイヤーも現地のプレイヤーが入っていく様子を生配信Dで目撃できます。この生配信にも大きな意味があって、この家捜しってつまりルーム型の謎解きなんですが、これをリアルタイムで生放送を見ているユーザーとも協力してやっていくわけです。
部屋を生中継しているカメラの前には最初からスマートフォンが放置されていて、着信履歴もある。いかにも大事そうなアイテムに思えるわけですが、みんなで謎を解いているとそんなことはすっかり忘れるんですね。そしてふと気がつくとスマートフォンがなくなっている! あのスマートフォンはどこに? と参加者が騒ぎ始めたとき、ようやくさっきまで部屋にいた人が一人、いなくなっていることにも気づく。なにしろ現地に行った人は、その場で初めて顔を合わせるわけですから、「誰かがいなくなっている」ことにもなかなか気づけないんです。
でも、そうやって「スマートフォンがなくなって、誰かが姿を消した」ことが認識されたところで生放送が切れて、Web小説が更新され、物語の登場人物が現地からキーアイテムを持ち去っていたことが分かります。物語と現実世界が重なったわけです。この瞬間はすごく盛り上がっていましたし、これは3D小説ならではだと思います。現実の場を使うということを上手くやりつつ、物語と現実をつないだんです。3D小説は、今やっても古びていないエンタメだと思いますよ。
城島:「今でも古びていない」っていうのはキーワードですよね。音楽などでも同じですけど、古びてなお良くなるものも含めて、良いものは朽ちないですよ。
石川:いまお話頂いたように、3D小説ってWeb小説が軸であり、スタート地点なんです。つまりARG初期のテーゼだったTINAGはないんです。なにせ「これは小説(=フィクション)です」と宣言しているわけですからね。
ところがこれを嘘の世界の話だと思っていた読者は、あるとき突然、その嘘の世界が日常に侵食してくる瞬間に遭遇する。つまり3D小説は海外におけるARGの原理的な約束を無視しつつ、「現実のすぐ裏に、現実と重なる物語がある」状態を作り上げているわけです。このあたり、3D小説はとても日本的なARGなのかなと感じました。
そしてこれを踏まえると、城島さんの疑問である「インターネットの時代に何があるのか?」という問いに対するひとつの突破口も見えてくるように思います。「インターネットでは当たり前だけど、日常ではないもの」、つまりインターネットでは当たり前のフィクションが、日常に侵食してくる感覚ですね。そしてこの「フィクションから始まるけれど、いつの間にか現実が巻き込まれる」という感覚は、アニメや漫画といったIPと相性が良いとも思います。
また、インターネット技術はミラーワールドやスマートシティといった領域にも広がっていきますから、将来的にはこのあたりも使えそうですね。
――ミラーワールドとスマートシティについて、三宅さんから簡単にご説明頂けますでしょうか。
三宅:いずれもその根底にあるのは「デジタル空間とリアル空間を接地させる」という考え方ですね。スマートシティは街のデジタル化・AI化です。漫画で言うと『アップルシード』(士郎正宗、青土社、1985年)的なものですね。ものすごい極論を言えば、AIが街を監視し、治安から物流まで管理するわけです。
一方でミラーワールドは、例えば渋谷であれば、渋谷そっくりな仮想空間を作ります。この仮想空間は現実と同期していて、商品ひとつに至るまで仮想と現実があります。現実と仮想が接続された世界というわけです。この技術が進めば、石川さんのご指摘どおり、「街全体を使ったデジタルエンターテイメント」が作れます。街を舞台やテーマにしたゲームとスマートシティの相性は非常に良いですしね。
また、エンターテイメントをリアルの空間で見ているのか、画面越しに見ているのかの間にある境界線が、どんどん薄くなって区別されなくなっていく可能性も高いです。もちろんゲーム側からではなく、先にMaaSといった側から発展と浸透が始まる可能性も高いですが、いずれにしても「街」がプラットフォームとして整備されていくことになるのかなと思います。