『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』が挑んだ「勇者」をめぐる問いへの回答と不可能性

 また、初代『ドラゴンクエスト』が発売されたのと同じ1986年には『たけしの挑戦状』というゲームが発売されている。基本的にはアクションアドベンチャーの体裁を採った作品だが、特定のタイミングでコントローラーのマイク機能を使わなければならなかったり、1時間放置しなければ手に入らないアイテムがあったりと、とにかく既存ゲームの常識を覆すようなシステムが自己目的化している作品だ。エンディングで現れる「こんなげーむにまじになっちゃってどうするの」というプレイヤーをバカにしたようなメッセージは、ゲーマーでない人々にも知られるところである。このように、ゲーム内の要素をパロディ的に自己言及するような演出が表現として現れ始めた時期と、『ドラクエ』が全盛期を築いていった時期は重なっているのだ。

 そんな中で『ダイの大冒険』は「勇者」をめぐる問いにどのような回答を示したのか。同作においても「勇者」という肩書きはある程度神聖視されているようだが、「特殊な血統に備わる伝説」というほど宗教的な意味合いを持つものではないようだ。というのも、主人公のダイにしても厳密には「勇者」の血筋を引いているわけではないし、「北の勇者」を名乗るノヴァや、勝手に「勇者」を名乗る”ニセ勇者”、でろりんというキャラクターなどが登場しもする。つまり実力さえあれば基本的には誰でも名乗れる称号で、実際作中ではダイ自身が「別にどうでもいいじゃんか 誰が勇者かなんて」とまで発言する(過去のゲーム作品でも取扱説明書で複数の「勇者」の存在がほのめかされることはあったが、『ダイの大冒険』のように血統に関係なく「勇者」が濫立するほどではなかった)。このように同作においては「勇者」が無頓着に伝説扱いされることは避けられている。

 とはいえ、ダイには「勇者」の血筋とは別の先天的な特殊能力が与えられてはいる。「謎の紋章の力」という、人智を超えた戦闘能力や魔法力を発揮する能力だ。作中ではこの力の持ち主だけが、「勇者」の証である「デイン」(電撃)系の呪文を使用できることなどから、事実上この「紋章の力」がゲーム版における「勇者」の血統とほとんど同じ扱いであると言うこともできる。

 しかし、ゲーム版のように「紋章」の持ち主が世界中で崇拝されているかというと、必ずしもそうではない。むしろ、人類に危害を与えかねない脅威として迫害を受けているのだ(『ドラクエⅪ』でも「勇者」が「悪魔の子」呼ばわりされる描写はあるが、あくまでも魔王の仕組んだ罠に過ぎず、人間の自発的な迫害ではない)。作中では「紋章」の持ち主が差別的扱いを受けていたこと、ダイ自身がそのことでアイデンティティ不安に悩まされること、そしてラスボス戦に至るまで、人智を超えた力の持ち主は人間から英雄視されることはないという描写が執拗に繰り返される。最終決戦においても、大魔王バーンはダイに向かって、「賭けてもいい 余に勝って帰っても おまえは必ず迫害される」とまで言う。このように『ダイの大冒険』では、「人智を超えた力の持ち主が当たり前のように世界を救い、人類から英雄視されること」の不可能性が描かれている。

 では「ただの人間が成長する物語を描けばよかったのではないか」というと、そうではない。なぜなら「ただの人間Lv.1が大魔王を滅ぼす物語」にしてしまうと、「主人公の成長過程に合わせて敵が登場する」という、RPGにおいて最大の(解決不能の)疑問が強調されてしまうからだ。したがって、ある程度の超越的な力の行使はRPG、ひいてはバトル漫画において必要不可欠である。

 ここにおいて『ダイの大冒険』は、「人智を超えた力の持ち主が世界を救うことの不可能性」と、「ただの人間が世界を救うことの不可能性」との矛盾に引き裂かれる。「人智を超えた力の持ち主」は人間から迫害され人類を救う必然性を持たず、「ただの人間」は世界を救う力を手にすることができない。

 このジレンマを一人の主人公が打破するのは、原理的に不可能だ。しかし、『ダイの大冒険』には、この矛盾を突破する回路が一つだけ残されている。

 そう、ダイ(人智を超えた力の持ち主)とポップ(ただの人間)が結託することだ。

 完全な意味で英雄になり切れない者同士が結託してはじめて世界は救われる。と同時に、「勇者」に対する暗黙の疑問までもが見事に回収されている。人類を救うことになんの必然性もないダイが大魔王に立ち向かえたのは、隣にいるポップが「その命を閃光のように輝かせる」人間の美しさを体現し続けたからであり、ポップが世界の命運を左右してしまうほどに成長できたのは、ダイの隣で戦い続けたからだ。ダイにとっては「本当にくじけそうな時 本当にあきらめてしまいそうな時 いつも最後のひと押しをしてくれた奴 おれを立ち上がらせてくれた奴 最高の友達」がポップであり、まさに「友情」と「努力」で「勝利」を収める物語が『ダイの大冒険』なのだ。

 このような、主人公の2人にそれぞれ矛盾するテーマを背負わせるという手法自体は他のあらゆる娯楽作品にも見られる。ちょうど原作者の三条がメインライターを務めた『仮面ライダーW』(2009年)などはその典型例である。同作の主人公、左翔太朗は「勝手な決断をしたこと」で自身の敬愛する人物、鳴海壮吉を死なせてしまった罪、もう一人の主人公フィリップは「決断をせずに生きてきた」ために、命令されるがままに人間を怪物化させる兵器(ガイアメモリ)を作り続けていた罪を背負っている。それぞれ一人で背負うには矛盾した罪を償うためにこそ、二人は「合体」し、一人の仮面ライダー、「W(ダブル)」として戦うのだ。

 しかし『ダイの大冒険』においては主人公(格)キャラクターを二人に分けるというアイディアが、単なる物語上の演出という枠を超え、ゲームシステムに内在する疑問を暴き出すことにもつながっていたことが、画期的であったと言えるだろう。それもメタフィクション的なパロディに回収されることなく、あくまでも「物語」の枠組みの中でこれを成立させたところに、三条陸の物語作家としての手腕と、たしかな矜持を感じざるを得ない。

 このように『ダイの大冒険』は、「友情」のあり方が(物語と自己言及的な演出との)二重の意味で強化された作品であるが、最後に敵キャラにまつわるちょっとした余談をもって、この思索を締めくくろうと思う。

 筆者のお気に入りキャラクターの中に、氷炎将軍フレイザードというモンスターがいる。その名の通り、半身氷、半身炎の身体を魔力で結び付けているモンスターだ。半身氷、半身炎の身体、そう、ダイやポップと違い、矛盾する要素を一身に引き受けてしまっているキャラクターである。矛盾を一身に引き受けてしまったこのモンスターは、滅ぼされるべき「悪」として登場するのだ。

 実際にどちらが「正義」で、どちらが「悪」なのかを主張する立場には筆者はいない。ただ、少なくともダイやポップたち「アバンの使徒」は、「最高の友達」がいることの美しさを示してくれている。

(画像=https://www.youtube.com/watch?v=3EHPUHvftdAより/参考書籍:宇野常弘『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎、2011))

■徳田要太
フリー(ほぼゲーム)ライター。『スマブラ』ではクロム使いで日課はカラオケ。NiziUのリク推し。Twitter

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