AIの発展は新たな差別を生み出すか? 『SAOアリシゼーション』で投げかけられた問い

AIに人間としての権利はあるのか

 『SAOアリシゼーション』は画期的なAI開発を描いているが、ここで人類がまだ直面していない倫理的な問題が生じることになる。

 それは、このように誕生したAIに人権はあるのか、という問題だ。生まれ方が従来の人間とは異なるが、知能も人格も人間と変わらない存在になったAIは、機械として扱うべきか、それとも独立した人間として扱うべきなのか。

 この問いに対して、主人公のキリトやヒロインのアスナは迷うことなく、人として接するべきだと答える。なぜなら、二人には仮想世界でうまれたAIであるユイという「娘」がいるからだ。仮想世界では小さい妖精のような姿のユイは、元々システムのバグとして生まれてしまった存在だが、キリトたちは彼女に愛情を抱き、管理者権限に割り込み保護することに成功する。たとえ、現実世界に肉体はなくてもユイはキリトとアスナにとってかけがえのない家族となっている。

 それゆえ、ボトムアップ型のAI開発のプロジェクトを知ったアスナは、その責任者の菊岡を問い詰めるときに真っ先にAIの人権問題を口にした。それに対して、菊岡は「10万人のAIよりも1人の自衛官の命の方が大切」だと言う。菊岡の考え方は極端な偏りあるものとは言えない。というより、現代の我々のほとんどは同じように答えるのではないだろうか。菊岡は、菊岡なりの視点で生命を尊重しているのだ。

 対して、アスナやキリトも生命を尊重するからこそAIの人権を主張する。両者の違いは「誰を人間と見なすのか」という点にある。

 この視点の違いの対立は、これまでの人類の歴史で繰り返されてきたことだ。例えば人種差別。近代は、あらゆる人間が平等だと謳い、憲法にも明記されるが、その人間の範囲が白人だけだとしたら、他の人種は奴隷にしてもよいことになるし、選挙権もなかった。近代の人類史は、誰に人権が適用されるのかの基準を拡大し続けてきた歴史とも言える。

 その考え方をさらに拡張してAIで生まれた生命を人間として受け入れることができるか、本作はそう問いかけているのではないだろうか。

 仮想世界で生まれた彼らは、ゲームの世界のように特殊な魔法、神聖術を扱え、ステータスをゲージで示されている。しかし、血を流せば痛みを感じるし、愛し合うこともできる。そして殺されたら元に戻れない。現実の人間と同じように、限りある人生を生きているのだ。

 そんな存在を生まれの違いだけで、戦争の道具にしてよいのか。それは、人類が未来に直面するかもしれない「新しい差別」と言えるのではないだろうか。『SAOアリシゼーション』は、そんな未来の問題を先取りした作品と言えるだろう。

■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。

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