メタルギア畑でつかまえてーーファントムを描く短編小説「『Metal Gear Solid V: The Phantom Pain』をプレイして」
兵器的優位性の欠如ーーレーザーサイト、支援ヘリ、「フルトン回収装置」について
次に、アフガニスタン系アメリカ人がアフガニスタンを舞台としたビデオゲームをプレイする際の混乱は、コチャイの短編において、先述の「二人称の採用」の他に「兵器的優位性の欠如」という観点からも追求されていることを確認しよう。メタルギア・シリーズでは、プレイヤーが様々な兵器やツールを駆使して敵地に潜入し、一方的に見て撃って離脱するというゲームプレイが可能であるが(勿論、プレイヤーの腕前やプレイ方針にも左右される)、コチャイの短編では、主人公の「あなた」はゲーム世界に入り込んだ後に兵器を上手く使いこなせず、窮地に追い込まれていく。
まず、「あなた」は麻酔銃のレーザーサイト機能をつけたままにしていたことを忘れ、赤い光線を叔父に見られて気配を悟られてしまい、反撃を受ける。このとき、『MGSV:TPP』においてレーザーサイトには米国製のものしか登場せず、同ビデオゲームの文脈ではレーザーサイトがアメリカの記号として機能していることを考慮すれば、コチャイの小説の「あなた」がレーザーサイト機能を上手く使いこなせないことは、単に兵器の扱いに不備があるというだけでなく、アフガニスタン系移民である「あなた」がアメリカ人としてのアイデンティティと上手く付き合えないことを巧みに表現していると言える。(注2)
次に、アフガニスタンの紛争地帯から脱出するためのヘリが破壊されることに注目しよう。ゲーム『MGSV:TPP』では、主人公スネークは海上に浮かぶ軍事基地「マザーベース」を拠点として、そこからヘリでアフガニスタンやアフリカに赴いてミッションを達成し、ヘリで拠点に帰還するという流れを繰り返す。ここにおいて、彼らはアフガニスタンやアフリカという非西洋地域を、覗き見趣味的に、あくまで一時的に訪問していると言える。しかし、コチャイの小説では主人公の「あなた」はアフガニスタンを脱出できない。というのも、「あなた」はアフガニスタンにルーツを持ち、一時的な訪問者ではなく、まさにその地に住む者でもあるからだ。
とはいえ、アフガニスタン系アメリカ人として米国西海岸に住む「あなた」は、アフガニスタンに根差した確固たるアイデンティティを持っているとも言えない。よって、アフガニスタンの外に還るべき場所はなく、かといってアフガニスタン内に安寧の地があるわけでもなく、ただ暗い洞窟へ「あなた」は逃げ込んでいくしかない。西洋と非西洋、アメリカとアフガニスタン、そのどちらにも親しみを覚えつつ疎外されるという複雑な移民的感覚を、コチャイは小説に落とし込んでいるのだ。
さらに、「あなた」が父と叔父を両肩に担いでヘリまで向かい、ヘリが撃墜された後にまた二人を担いで逃げるという展開には、『MGSV:TPP』プレイヤーならある疑問を感じるだろう。なぜ「フルトン回収装置」を使わないのか、と。「フルトン回収装置」とは、大きな風船を人や動物や車両や兵器などに括りつけて勢いよく空に飛ばし、空中で待機している支援ヘリ部隊に回収してもらうという、ゲーム内に登場する物資回収装置のことである。この「フルトン回収装置」は『MGSV:TPP』のゲーム序盤で入手でき、これを利用して対象を空に飛ばして支援部隊に回収してもらえば、わざわざ人を担いでヘリまで運ぶ必要はない。しかし、「あなた」はこの便利な「フルトン回収装置」を使わず、両肩に父と叔父を担いで運び、アフガニスタンから両者を脱出させることに失敗する。ゲーム開始直後だから「フルトン回収装置」をまだ入手していないのではないかとも考えられるが、前述のように「あなた」がレーザーサイト付きの麻酔銃を使用していることを考慮すれば、この短編は厳密な意味において『MGSV:TPP』の序盤を扱っているとは言えない。
というのも、同ビデオゲームにおいて麻酔銃にレーザーサイトが付けられるのはGrade 4まで銃を改造したときであり、その段階まで銃を改造できるのは順当に行けばゲームを中盤まで進めた頃だからである。つまり、「あなた」はゲームを始めたばかりにもかかわらずゲーム中盤以降の銃を使用していることになる。よって、コチャイの小説ではゲーム序盤ゆえに「あなた」が「フルトン回収装置」を持っていないとは必ずしも言えない。そうして、「あなた」が「フルトン回収装置」を使わずに父と叔父を両肩に担ぐようにコチャイが執筆したことは、「あなた」がゲームを通して父と叔父に近づき、彼らを理解したいという願いの切実さをより効果的に演出している。日本語の「把握する」と英語の “grasp”は、共に「握る」という原義から派生的に「理解する」という意味を持つ。「握る」ことは、「理解する」ことである。「あなた」は大きな風船を父と叔父にくくりつけて空の彼方に飛ばしたいのではなく、彼らに近づき、その体を掴み、握り、理解したいのだ。
かくして、「あなた」は父と叔父を麻酔銃で昏倒させ、「フルトン回収装置」を使うことなくその手に二人の体を「つかまえる(“catch”)」。このとき、「あなた」はJ・D・サリンジャー(J. D. Salinger) の小説『ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)』(1951年) の主人公ホールデン・コールフィールド(Holden Caulfield) を彷彿とさせる。不条理やインチキだらけの世界で、せめて自分の手の届く範囲の事物を「つかまえ(“catch”)」、救いたいというホールデン少年の願いは、邦訳者の野崎孝による秀逸な邦題「ライ麦畑でつかまえて」が示唆するように、不条理だらけの世界で自分をつかまえてほしいという願いへと反転する。コチャイの短編にもこれを当てはめるならば、「あなた」は父と叔父をつかまえたいのと同時に、彼らにつかまえてほしいのだ。このように、「あなた」がルーツを希求する意思は、便利な兵器を上手く使いこなせないことによってより切実に表現されている。