『シュガー・ラッシュ:オンライン』は“ゲーム界”をどう映した? ヴァネロペとラルフの存在が示すプレイヤーの心理

絶えず更新される世界


 このあたりは、ディズニー映画ながら都市の犯罪や腐敗を描いた『ズートピア』(2016年)で、原案・脚本を担当した、フィル・ジョンストンが監督の1人を務めているだけのことはある。ディズニー・プリンセスが、暴力的な表現が絶えず世間の槍玉にあがるようなタイプのゲーム世界に惹きつけられるというのは、衝撃的な展開だといえよう。

 だが、ヴァネロペが「スローター・レース」に魅了されたのは、暴力的側面というよりは、このゲームが、3Dで構築された世界の中で好きなように動くことが可能なオープン・ワールドのゲームであることであり、さらにオンラインによってそれが日々更新されていくという点である。

 劇中、ヴァネロペはアーケードゲーム「シュガー・ラッシュ」の中で、日々繰り返される一本道のレースに不満を覚えていた。ラルフが気を利かせて、ヴァネロペのためにワイルドな新コースを作って大いに喜ばせたように、より自由さを求めるヴァネロペに必要だったのは、まさに「スローター・レース」のようなオンラインゲームだったのだ。

 『グランド・セフト・オートV』における「GTAオンライン」のように、インターネットによって、その世界は日々更新され、ユーザーのゲームデータを書き換えながら、新しい場所やアイテムの追加、イベントなど、どんどん新しい可能性が広がってゆく。それは、いまやスタンダードなゲームの楽しみ方となっている。

 ただ、その前の時代を知っている世代のなかには、この新しい楽しみ方に違和感を覚えている人もいる。本作でその象徴として描かれるのがラルフである。

新しい可能性がもたらした違和感


 それだけで完結している、ネットに接続されない古いゲームは、一本の映画のように、一つの「作品」として理解することができる。だが、スタッフが入れ代わりながら定期的に更新され運営される、“いつまでも完成しきらない”オンラインゲームは、それとは異質な趣がある。

 メーカーが費用をかけてネットゲームを更新する理由は、それが課金や広告などで継続的な収入をもたらしてくれるという計算があるからだ。なので会社はユーザーの人気がある限り続け、閑散としてくれば、更新がなくなっていったり、見切りをつけられる流れが多い。

 人気によって続けたり打ち切りになったりが決まるのは、そのようなシステムを採用している、アメリカのTVドラマシリーズや、日本の雑誌に連載されている漫画作品なども同様だ。もちろん例外も多くあるのだが、それらには、共通した構造上の問題が存在する。

 作品には、描かれるテーマや要素などによって、適切な長さというものがあるはずだ。すでに描くべきことを描き終わっているはずなのに、人気があることで存続し、ダラダラと惰性で同じような展開を繰り返して、人気が無くなると終わらせる……そのようなシステムによって、名作となり得たはずの作品が、全体的に眺めてみたときに、つまらないものになってしまっていたというケースは、よくあることだ。このように、受け手の要求に従って作品を提供することが、本当にゲームや漫画やドラマにとって、そして受け手自身にとっても良いことなのかということは、議論されねばならない問題だ。

 このような批判を回避するように、ストーリーのある多くのネット対応ゲームは、とりあえず最初のうちは従来のようなクローズドな内容をプレイさせておいて、一定のところでエンディングを体験させ、そこから決められた目的のない、完全なオープンワールドの冒険や、ネットによるイベントを楽しむモードに移行するという場合も多い。しかしそれは、エンディング以降のゲームを「作品」であることから切り離す行為だともいえよう。

 だから、それ以前のスタイルのゲームは、レトロゲームとして、いまもなお需要がある。ラルフは、スタンドアローンの美意識を好む、古い時代のゲームを知るプレイヤーの意識の象徴だといえよう。

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