日本のアニメはなぜフルCGを忌避し“ハイブリッド”な画面づくりを続ける? その理由を読み解く
日本のアニメの弱点を長所へ
高畑監督は自身が公言する通り、「日本のディズニー」を目指したアニメーション作家である。そんな監督がここで本質的に行おうとしていたのは、CG表現を選び取ったディズニーに対して立ち遅れた日本のアニメーションを、ディズニーと真っ向から戦えるようなものへと変革させるという試みではなかったか。
それこそが、前述したような紙に描いた絵がそのまま動き出すようなビジュアルの構築である。なぜそれが必要なのかというと、そこに「生きた線」、「生きた彩色」が実現できるからである。
高畑監督が惹きつけられたクリエイターの一人に、フランスの漫画家フレデリック・ボワレがいる。彼の制作方法はユニークで、まず映像を撮影してから、それを基に鉛筆で描いた線を画像編集ソフトに取り込み、さらに映像素材を濃淡のあるトーンへと変換しながら、“リアルで映像的な”、しかしスケッチ的でもあるヴィジュアルを表現していた。ボワレ氏はそのような手法に至るまでの理由の一端について、このように述べている。
「何にこだわるかといえば『絵がいかにいきいきしたものになるか』ということでしょう。『生き』ですね。絵が生きるように皆努力するわけです。ラフスケッチのときには『生き』がある。でもその後、丁寧に描こうと気を遣うあまり、『生き』が失われるということがあるんです。八〇年代から九〇年代の最初にかけてですが、私の場合はまず下描きです。鉛筆でラフスケッチを描く。その後、ラフスケッチで描いた通りに鉛筆できれいな絵を描く。その後、絵の上に筆で描いていました。でもどれだけ元気にやっても、筆では最初のラフスケッチと比べると、何か『生き』が違うという感じでした」(引用:太田出版「電脳漫画技研」)
ここで語られている“生き”が失われるという現象は、そのままアニメーションの表現にもいえるはずだ。アニメーションの設定資料を見ると分かるように、イメージボード(アイディアスケッチ)、絵コンテ、レイアウト、原画、動画と、アニメ作品が完成していく過程で、もともとはのびのびと自由な感性で描かれていた絵が、往々にして決まりきった表現の枠のなかに押し込められ、次第に絵本来の魅力が失われていくように感じられるのである。漫画表現同様、それが長らく放置されてきたのは、「アニメとはそういうものだ」という伝統、既成概念が支配的だったからではないだろうか。
しかし、もし本来の傑出したアニメーターの絵が描き出す、魅力あふれる本来の絵が、そのままアニメーションとして動き出したら…ペタッとした平面的な彩色ではなく、美しい濃淡ある色合いが動画として表現できたら…それは一体どれほど素晴らしいものになるのか。そして、そこに最も近づくことができた作品こそ『かぐや姫の物語』だったのではないだろうか。おそらくここで高畑監督のやろうとしていたことは、手描き表現の魅力を最大限に引き出そうとすることであり、また、この手法を完成させることで次世代の日本のアニメーションを救おうとしていたのではないかと思えるのである。
たしかに日本のアニメーションは、「フルCG」という変革の機を逃し、いまだに多くの作品ではCGを、画面を豪華にする意図でしか使えていないのかもしれない。だが視点を変えてみると、じつはそのガラパゴス的状況こそが、新しい変革へのきっかけになり得るのではないだろうか。その鍵となる材料や見本は、すでに用意されているはずである。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト
■公開情報
『未来のミライ』
全国東宝系にて公開中
声の出演:上白石萌歌、黒木華、星野源、麻生久美子、吉原光夫、宮崎美子、役所広司、福山雅治
監督・脚本・原作:細田守
作画監督:青山浩行、秦綾子
美術監督:大森崇、高松洋平
音楽:高木正勝
オープニングテーマ・エンディングテーマ:山下達郎
企画・制作:スタジオ地図
配給:東宝
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公式サイト:http://mirai-no-mirai.jp/