なぜ『タイタニック』の弦楽四重奏団は心に残るのか? “クリエイティヴ経済”から読み解く
ローズこそ最強
しかしじつは、ジャックを超える最強の「アイデンティティ労働者」が存在する。ローズである。どういうことか。
ローズはタイタニックの事故の後、様々な職を遍歴し、多くの苦労を経て現在の豊かで平穏な生活を得たことが間接的に示される。しかし感動的なのは、この苦労そのものではない。この努力を通じてローズが、凍えるジャックと最後に交わした約束⸺どれほど絶望的な状況でも、決してあきらめないこと⸺を貫き通し、ジャックの予言⸺多くの子どもを産んで、年老いて暖かいベッドで死ぬ⸺をまさに実現していること、これが重要なポイントになっている。
自由の女神像の脇を船で通過するシーン(移民の場面の典型例)が象徴的に示しているように、ローズは上流階級の身分を捨て、ジャックの姓を名乗り、移民としてアメリカに渡る。この、ジャックが与えてくれた、生まれ変わった自分を、彼との約束を胸に維持し続けること⸺彼に恥ずかしくない自分であるようあきらめず努力し続けること⸺ローズが個々の具体的な労働(例えば女優)を通してその都度実際にやっていたのは、このような「アイデンティティ管理」の労働なのだ。これこそが、ふたりの愛情において最も重要で、感動的な部分になっている。三浦を引用すれば、「ジャックの愛は、ローズのアイデンティティの核となるからこそ、尊い」。この意味で主人公たちは、じつは非常に現代的な労働者としてスクリーン上に存在している。
上に挙げた弦楽四重奏団の印象深さも、このような『タイタニック』における「労働」というテーマに位置付けることができるだろう。「使命に殉じる」こと自体が時に感動的なのはもちろんなのだが、「クリエイティヴ経済」のロジックが支配する作品世界で、ジャックと同様アーティストである彼らは、最初から際立った存在だったのだ。実際、前半をじっくりと観れば、彼らの演奏シーンは、終盤だけではなく意外とたびたび画面上に登場していることがわかる。馴染み深い、親近感のあるアーティストたちの殉死⸺あのシーンは、そのように感じられるからこそ印象的で、記憶に残ることになる。
忘れられた人びと
しかし、主人公たちの悲恋や弦楽四重奏に心動かされながら、一方で私たちは非常に重要な存在を忘却している、と三浦は指摘する。作品の成立に決定的に必要で、実際に画面にもきちんと映るにもかかわらず、おそらくほとんどの観客は観終わったころには忘れてしまっている存在⸺それが機関室の労働者、火夫たちだ。
火夫たちは、タイタニックという船そのものの運行に不可欠なのと同様、『タイタニック』という映画の「クリエイティヴ経済」の構造のために必要とされている。ジャックとローズが結ばれる貨物庫が、まさに機関室を抜けた先にあったことを思い出そう。下層階級でありつつもフレキシブルなアーティストたるジャックを、ふつうの労働者とは違う、「特別な貧乏人」として際立たせる、文字通りの背景として火夫たちは召喚されなければならない。その上で、彼らはことが済めばもはや不要であり、観客の視野の外へと放擲される。実際⸺弦楽四重奏団と違って⸺彼らの最期を覚えている人はいるだろうか? いないはずである。なぜなら、彼らが事故の後で最終的にどうなったのかは、端的にそもそも描かれていないからだ。単純労働が社会から消えた⸺と錯覚される⸺のと並行するようにして、彼らは作品世界から姿を隠されてしまう。そのことによってこそ、「クリエイティヴ経済」は成立する。
このような残酷な構造が『タイタニック』にはある、と三浦は分析している。このことはもちろん、本作が名作であることと決して矛盾しない。むしろ優れた大ヒット映画だからこそ、人々の無意識の欲望を掬い取り、図らずしも社会を映し出す鏡にもなっている。20世紀初頭の事件を扱いながらも、現代の労働概念について示唆する、すぐれて興味深い作品として『タイタニック』はある。
そして惜しむらくは三浦がすでに亡くなっていることだ(『村上春樹とポストモダン・ジャパン』は遺作)。しかし、私たちは彼が没してしまっていても⸺潜水艦がなくとも⸺本を開けば彼の思考には触れられる。『タイタニック』を存分に楽しんだあとには、ぜひ本書も手に取ってみてほしい。「革命は自己啓発になり、抵抗は愛になる」をはじめとする、上では紹介できなかったパンチラインが盛りだくさんで、とにかく、めっぽう面白いはずだ。
参照
※ https://kinro.ntv.co.jp/lineup/20260904
■放送情報
『タイタニック』
【第2夜】日本テレビ系にて、9月11日(金)21:00~22:54放送
出演:レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウィンスレット、ビリー・ゼーン、キャシー・べイツ、ビル・パクストン
監督・製作・脚本・編集:ジェームズ・キャメロン
声の出演:石田彰、冬馬由美、江原正士、一城みゆ希、堀内賢雄
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