『花緑青が明ける日に』にみたアニメーションの根源的な力 “花火”に込められた深い意味

 青緑色に放射された鮮やかな閃光。美しく尾を引いて闇を切り裂いていく火の帯。そして静寂を打ち消す一瞬の轟音……。夜空に打ち上げられる花火を描いたシークエンスは、誰もが息を呑むだろう。アニメーション史のなかでも、おそらく最も精細にこだわりをもって花火を描き、クライマックスに置いたのが、2025年のアニメ映画『花緑青が明ける日に』だった。そこには、一般的な商業アニメーションの“きれいさ”とは明確に異なる、絵画をそのまま動かしているような感覚がある。

 それもそのはずで、本作『花緑青が明ける日に』を手がけた四宮義俊監督は、もともと日本画家として活動してきたアーティストだ。東京藝術大学で日本画を学び、博士課程を修了。新海誠監督や片渕須直監督の作品などの美術にも携わりながら、CMやミュージックビデオなどジャンルを横断した創作を続けてきた。本作は、そんな四宮が自らオリジナル脚本を書き、長編アニメーションに監督として初挑戦した一作なのだ。

 権威あるアヌシー国際アニメーション映画祭の、独創性や実験的アプローチを重視する長編コントルシャン部門において審査員賞を獲得した本作が、確かになかなか類例のない長編アニメーションであることは、その挑戦的な画角や、複雑で精妙な色彩の提示によって、すぐに伝わってくる。こうした一人の作家性が爆発したような作品は、望んでも毎年観られるものではない。

 そんな本作『花緑青が明ける日に』が、Blu-ray&DVDでフィジカルリリースされる。筆者は自宅で本作を体験したのだが、俗に「スルメ映画」などと呼ばれるように、いつまでもリピート再生したくなるような魅力が、この作品にはある。それは本作が、奇抜なストーリー展開や強烈なキャラクターの個性でぐいぐいと引っ張るような性質ではなく、アニメーションの根源的な力そのものに重点があるためだろう。

 浸っていたくなるような、透き通った水のような清廉さと、哲学的な雰囲気を感じるのは、音楽を担当している蓮沼執太の作家性でもあるはずだ。サウンド自体の浮遊感に加え、映画のための音楽でありながら、映画の意味を一つに固定しない、多義的な音楽への向き合い方から生まれる世界は、それ単体で身を委ねたくなる魔力を備えている。この映像と音楽が、本作を再生する部屋を満たし、観る者を没入させていく。

 また、劇中に挿入された、フランスのヴィクトル・アジュランによるストップモーション・アニメーションも、また異なる角度で表現的な多様性を内容に加えている。だがこの映画は、そうした美しいアニメーションや没入感の魅力ばかりで終わる作品ではない。むしろ、美しいからこそ、少し厄介なのだ。

 物語の舞台となるのは、緑豊かな森のなかにある老舗の花火工場・帯刀煙火店。有機的に描かれる美術によって、この作品の中心となるこの場所自体が、まるで生き物のように見える。そんな工場であり家は、メガソーラーを設置する町の再開発によって立ち退きを迫られている。そんな帯刀家の次男・敬太郎(CV:萩原利久)は、自身が育った家を守り、失踪した花火職人の父に代わって「シュハリ」と呼ばれる幻の花火を完成させようとしている。

 一方、幼なじみの式森カオル(CV:古川琴音)は故郷を離れ、東京で暮らし美大に通っていた。立ち退き期限が迫った夏の終わり、カオルが故郷へ戻ってくる。そこで敬太郎、市役所に勤める兄の千太郎(CV:入野自由)と再会し、3人は幻の花火を打ち上げる最後の計画に尽力しようとする。

 このストーリーの鍵となるのが、青緑色の「花緑青」だ。ドイツで生まれた実在する顔料であり、殺鼠剤としても使われるほどの毒性のために現在ではあまり使われなくなったこの素材の性質には、本作が描く美しさと、ある種の暴力性の問題を、象徴的に備えている。

 花火職人を目指していたはずの3人の子どもたちが大人になっていく姿を追った物語は、シンプルな構造を持っている。彼らが大人になっていくにつれて、それぞれの環境も大きく変わっていく。故郷の森は再開発によって切り倒され、海岸は埋め立てられる。そして彼らの中心であった花火工場も立ち退きを迫られている。

 別々の進路を選んだ3人をかろうじて結びつけているのは、いまにも取り壊されようとしている花火工場だ。消えゆく子ども時代への別れ、あるいは一つの集大成として、彼らは最後の花火を打ち上げようとするのだ。ここまでは、失われゆく故郷を守る若者たちの物語として、類型的なストーリーだと感じられる部分もある。

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