ジャン=リュック・ゴダールを現代的な視点から再考する 監督作が“異物”であり続ける理由

 リチャード・リンクレイター監督が、ヌーヴェルヴァーグの代表的作品である『勝手にしやがれ』(1960年)誕生の舞台裏を描いた最新作『ヌーヴェルヴァーグ』が公開中だ。このタイミングで現在、ジャン=リュック・ゴダール監督の初期作品を集めた再上映イベントが開催されている。

 そのタイトルは、映画史の金字塔である『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』(1965年)。さらには、「エッセンシャル・ヌーヴェルヴァーグ」と題された特集上映で、『女は女である』(1961年)4K修復版、『女と男のいる舗道』(1962年)4K修復版、『はなればなれに』(1964年)2K修復版、そしてオムニバス『パリところどころ』(1965年)2K修復版が上映される。もちろん、この機会に配信などで鑑賞するのもいいだろう。

 2026年のいま、われわれが初期ゴダール作品に触れる意味とは、何だろうか。ここでは、リンクレイターが『ヌーヴェルヴァーグ』において、映画を生み出す者の視点から、ゴダールという存在を神格化させずにいきいきとスクリーンに映し出したように、過去の伝説ではなく現代的な視点から、ゴダール監督の作家性や染み出してくる性質を捉え直していきたい。

『勝手にしやがれ』©1960 STUDIOCANAL - Société Nouvelle de Cinématographie – ALL RIGHTS RESERVED.

 1950年代のパリ。ゴダールは、フランソワ・トリュフォーやエリック・ロメール、クロード・シャブロルらとともに、文化施設「シネマテーク・フランセーズ」のスクリーンに映し出される過去の映画に熱狂していた。映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の尖鋭的な批評家としてキャリアを開始した彼らは、映画を消費し論じる立場から、映画を撮る立場へと転身していく。これが、映画史上の重要な映画運動「ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)」の中核となった。

 ゴダールの長編デビュー作『勝手にしやがれ』で彼が見せた革新は、即興的なロケ撮影、従来の映画文法を無視したジャンプカットを多用する編集、映画が映画であることを意識させるメタフィクショナルな演出など、後にヌーヴェルヴァーグとされる典型的な試みの数々だ。そうしたあらゆる違和感をもたらす特徴が、映画にまつわる固定観念を次々に破壊していった。

ハンフリー・ボガートの影を追う男たち

 ゴダールの映画に登場する男たちは、一見するとアウトローであり、社会の規範に抗う自由な個人に見える。しかし、その振る舞いを追っていくと、彼らが現実の欲望や生き方に基づいて動いているというよりは、過去の映画のイメージを追いかけていることに気づかされる。

 ジャン=ポール・ベルモンドが演じた『勝手にしやがれ』の主人公は、自動車を盗み、追ってきた警察官を殺害してパリへと逃亡する、警官殺しの犯罪者だ。彼は自分をかくまうアメリカ人留学生(ジーン・セバーグ)に執着し、彼女とともに逃避行を図ろうとする。しかし彼が生きているのは、果たして現実のフランス社会だったのだろうか。

 彼は劇中で、ハリウッドのフィルム・ノワールの名優ハンフリー・ボガートのポスターを見つめ、ボガートの仕草を真似てみせる。この姿を見ていると、彼が真になりたかったのは現実の犯罪者ではなく、犯罪映画の主人公だったのではないのかと思えてくる。そういった意味ではゴダール自身も、“犯罪映画を撮った”というよりは、“犯罪映画についての映画を撮った”、というのが、より正確なところなのではないだろうか。

 こうした、映画のごっこ遊びをする男たちの構造は、『はなればなれに』においても反復される。ここで強盗計画を企てる二人の青年は、『勝手にしやがれ』の主人公がそうであったように、切実な困窮や悪意を理由に、犯罪に手を染めるわけではない。劇中、ルーヴル美術館の名画群を駆け抜け最速記録に挑む有名なシークエンスや、カフェで思い立ったようにダンスを踊り出す彼らは、現実の社会を生きるのではなく、日常をドラマティックなものに変容させるゲームを楽しんでいるかのようだ。しかしこの作品でも、犯罪映画のヒーローを気取るゲーム感覚は、現実の状況の前では崩壊せざるを得ない。

『はなればなれに』©1964 GAUMONT / ORSAY FILMS

 現実の出来事や人物をモデルに犯罪映画をリアルに撮るのではない。犯罪映画のイメージを念頭に、彼ら主人公たちは欲望を刺激され、突き動かされるように描かれている。これはゴダールが超然とその構図を用意したというよりは、実際に映画を浴び、映画に溺れていた経験を経ていた自分自身の世界感覚がそのようなものだったということだろう。このバーチャルな意識の表現は、その後の時代の価値観を照らし出しているとともに、後続世代のレオス・カラックス監督にも共通した、現実に対するナイーブな不安の表出だったり、ややナルシスティックな自虐でもあるのだろう。

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