『塔の上のラプンツェル』共同監督が描く“分断と受容” 『プークーと魔法の植物』の真価
Netflixから、スカイダンス・アニメーションの新作『プークーと魔法の植物』がリリースされた。かつてディズニーやピクサーの黄金期を統括しながらも、不祥事によって表舞台を追われたジョン・ラセターが移籍したスタジオから送り出された本作は、ラセター指揮のもとでディズニー映画『塔の上のラプンツェル』(2010年)の共同監督、ネイサン・グレノの監督作でもある。
ここでは、そんな本作『プークーと魔法の植物』が描こうとした“分断と受容”というテーマを掘り下げながら、混迷する現代のアニメーション界における本作の真価を考えてみたい。
主人公のオリーは、リスやプレーリードッグのような愛らしい姿をした“プークー”という種族の一員だ。その外見は、植物の種を思わせる鼻を備えていて、彼らがこの森の一部であることを示唆しているといえる。
好奇心旺盛で、既存のルールに縛られずにいつでも新しい発想を試したいオリーは、ある日、葉っぱの翼を持つ鳥の姿をした“ジャヴァン族”の子どもと出会う。オリーは善意から、ジャヴァンの子供にプークー族だけが知る食料の食べ方を教えてしまう。しかし、この小さな親切によって、ジャヴァン族によってプークーの森の食料は食べ尽くされ、種族全体が飢餓に陥る事態が生まれてしまう。
本作のストーリーの鍵を握るのは、生物を他の種族の身体へと変化させる不思議な植物の存在である。プークー族を危機に陥れた責任を感じたオリーは、この植物の力によって、身体がジャヴァン族のものに入れ替わるという、不可思議な現象に巻き込まれる。
オリーは、自らの種族にとっての天敵であり、憎しみの対象であったジャヴァン族の身体に。逆にジャヴァン族のアイビーは、小さく非力なプークーの身体にと、ふたりは慣れない異種の身体に戸惑い、肉体的な不自由さを強いられることになる。この経験が、両者間の偏見を払拭していくのである。
子どもを対象にしたこの物語が、多様性の尊重を強くうったえかけていることは言うまでもないだろう。国際化が進んで、多くの人々が国境を越えて移住し、異なるルーツを持つ者が隣人となる現代。そして、日本では立ち遅れているが、同性婚の法制化など、世界中で多様な生き方が認められ始めている現在を、本作はファンタジーの枠組みを借りて映し出している。
ファイヤーウルフという悪役が、島での権力を奪うため、種族間の分断をはかったという展開は、きわめて示唆的だ。これは、特定の属性や出自を標的にして、多様な人々の在り方を否定する、現実世界の政治家たちのイメージと重なるところがある。ファイヤーウルフが、他の種に変身できる植物をもたらす巨大な生物“ツォー”を森から排除し、巨大な壁によって侵入を阻むという設定は、現実の国境に張り巡らされたフェンスを想起させると同時に、分断される社会の精神的な障壁をも意味している。