『センチメンタル・バリュー』『レンタル・ファミリー』にみる、“演じること”でわかる“真実”
“演じること”でしか触れることのできない“真実”がある。それが恐らく本稿の結論となるだろう。『恋愛裁判』『センチメンタル・バリュー』『木挽町のあだ討ち』、そして『レンタル・ファミリー』――ここ最近、“演じること”について改めて考えさせられるような作品が、相次いで公開されている。そもそも映画はフィクションなのだから、それが“演じること”で成り立っているのは当たり前のことだ。けれども、上記の映画では“演じること”そのものが、作品の重要なテーマのひとつになっているように思うのだ。しかも、それぞれがまったく異なる形で。その果てに浮かび上がってくるものは何なのか。以下、ひとつずつ見ていくことにしよう。
『恋愛裁判』アイドルという“虚構”を通じた感情の肯定
深田晃司監督の映画『恋愛裁判』は、アイドルを“演じること”で、自身の夢を叶えると同時に、ファンとも良好な関係を築いていた主人公・山岡真衣(齊藤京子)が、ある男性と恋に落ち、それがファンを含めた周囲の人々に発覚することによって、グループ脱退はもちろん、事務所から解雇され、挙句の果てには違約金をめぐる“恋愛裁判”に巻き込まれてゆく過程を、彼女の内面的な葛藤ととも共に描いた作品だ。アイドルとしてステージに立つことは、真衣にとっては小さい頃からの夢だった。けれども、それだけでは満たされないものがあることに、彼女は気づいてしまったのだ。それは、人として当たり前のことではないのか。ゆえに、彼女は裁判で戦うことを決意する。
本作のメインテーマは、“恋愛禁止条項”の是非を、観る者たちに問い掛けることにあるのだろう。しかし、注意深く見ていればわかるように、真衣は最後の最後まで、アイドルそのものを否定することはしない(実際彼女は最終的に、それまでとは違う形でアイドルの現場に携わることになる)。本作は、“恋愛禁止条項”の是非を問いながらも、アイドルという“虚構”を通じて、演者とファンが思いを重ね合うこと――その“感情的な価値”自体は否定しないのだ。その“構造”にいくばくかの疑義を挟み込みながらも、そこで生きる“主体”は否定しない。むしろ肯定する。それが本作のスタンスなのだろう。
『センチメンタル・バリュー』“虚構”でしか分かり合えない家族
ヨアキム・トリアー監督の映画『センチメンタル・バリュー』は、著名な映画監督である父・グスタフ(ステラン・スカルスガルド)が娘に演じてもらうことを想定して書いた脚本を、やがて女優を生業とする主人公・ノーラ(レナーテ・レインスヴェ)が演じるに至るまでを描いた作品だ。ノーラが主演する舞台の開幕前のドタバタから始まる本作は、“演じること”の喜びではなく、それに伴う“負荷”の部分を隠すことなく描いている。俳優を生業とするノーラの精神状態は、終始心許ない。その原因のひとつは、彼女が幼い頃に家族を捨て、家を出ていった父の存在にあるようだ。そんな父が、彼女と妹を女手ひとつで育て上げた母親の葬儀に、突如として現れる。一体、何十年ぶりの再会になるのだろう。姉妹がいぶかしがるように、父には明確な目的があった。彼にとっては最後の作品になるかもしれない映画の主演を、娘・ノーラに依頼しようとしているのだ。しかも、彼が捨てたこの“家”で、それを撮影するというのだ。ノーラはそれを即座に拒絶する。
幼き頃、父の映画に子役として出演したことのある妹・アグネス(インガ・イブスドッテル・リッレオース)は言う。映画に出演することは無上の喜びではあったけれど、撮影には終わりがあり、それに関わった人々はやがて散り散りに別の現場へと向かってゆく。その寂しさが、子ども心には耐えられなかった。以降、彼女は映画の世界から距離を置き、自らの人生を築き上げている。そんな彼女からすれば、“演じること”を生業とする姉・ノーラは、そして“演じること”によって成立する映画という“虚構”に執着し続けている父は、いずれもある種の“業”を背負った人間たちなのだろう。彼/彼女たちを見つめる視線はやさしくとも、自分とは違う種類の人間たちであることは分かっている。それは、多くの観客にとっても同じだろう。けれども、そんな“虚構”の世界を通じてしか分かり合うことのできない父と娘の在り様は、少なからず多くの人々の胸を打つ。さらにもう一歩離れてみれば、そのすべてが“虚構”であるにもかかわらずだ。ここで重要なのは、何が本当で何が嘘なのかではない。それを観て感じたものこそが、かけがえのない“真実”なのだ。それは、私たちが映画や演劇など、誰かがそれを“演じること”によって成り立つ芸術を観る、大きな理由のひとつでもあるのだろう。