『べらぼう』になぜ“夢中”になったのか 横浜流星ら制作陣に1年間の「ありがた山!」
2025年は、最初から最後まで、ずっと『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(NHK総合)だった。もちろん、最初の頃は、横浜流星が演じる、この蔦屋重三郎という馴染みのない人物が主人公で、果たして1年間、話が持つのだろうか? という不安もあった。しかしながら、『源氏物語』で知られる紫式部を主人公とした前年の大河ドラマ『光る君へ』を思いのほか楽しんだ身としては、それに続く「文化系」大河ドラマとも言うべき本作に、大きな期待も寄せていた。
当初の自分の主な興味は、以下の3点だった。「黄表紙」と呼ばれた、挿絵が多く入った大人向けの「小説」でヒットを連発しながら、その一方で喜多川歌麿や東洲斎写楽といった、今となっては世界的にその名が知られている浮世絵師たちを発掘、育成、売り出した、江戸時代の出版プロデューサー・蔦重は、「大衆の欲望をどのようにつかみ取り、それを商品へと変えていったのだろうか」「その感度の高いアンテナと幅広い人脈は、いかにして作られていったのか」「そこには何か、現代のエンターテインメント業界全般に通じるヒントがあるのではないか」。
結論から言うと、それらの興味は、概ね満たされるドラマだったように思う。「穿ち」の精神とか「滑稽・諧謔」の精神って、本当に大事ですよね。その時代や社会が、厳しければ厳しいほどに。けれども、それらの興味云々以前に、そもそも人間ドラマとしてこれほど面白いものになるとは、正直思っていなかった。それがなかったら、ここまで夢中には、なっていなかったかもしれない。
蔦重と、その幼なじみである花魁・花の井/瀬川/瀬以(小芝風花)の関係はもとより、蔦重の育ての親である駿河屋市右衛門(高橋克実)をはじめとする吉原の忘八たち、蔦重に出版の手ほどきをした書店主・鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)、蔦重に「耕書堂」という屋号を与えた平賀源内(安田顕)、その源内と老中・田沼意次(渡辺謙)の信頼関係など、ときにすれ違いながらも交錯する、さまざまな人間ドラマ。
そして、中盤以降は、帰って来た唐丸こと喜多川歌麿(染谷将太)と蔦重の関係性も――蔦重の妻となるてい(橋本愛)との関係性も含めて、物語の核となっていた。蔦重と彼/彼女たちをつなぐものは、愛である以上に夢だった。もちろんそこには、叶うことなく儚く散った夢も、たくさんあった。しかし、たとえ儚くとも、夢を見ずにはいられないのが人間なのだ。そして、その夢を気の置けない人物に熱く語る瞬間こそが、人生における最上の瞬間であり、最も美しい瞬間なのではないか。このドラマには、そんな美しい瞬間が溢れていた。だからこそ、これほど多くの人を夢中にーー文字通り、夢の中へと誘ったのだろう。
それにしても。物語の中盤以降、驚かされたのは、田沼意次の失脚から、江戸の大衆文化にとって受難のときであった、老中・松平定信(井上祐貴)による寛政の改革を経て、徐々に孤立し空回りしてゆく蔦重の姿を、容赦なく描いていったこと。さらには、その定信を巻き込んだ形で、放送前から注目されていた謎の絵師・写楽の正体を描いていったこと。そして何よりも、それをきっかけとして、物語の序盤より江戸城内で暗躍していた巨悪・一橋治済(生田斗真)を蔦重たちが成敗するという、誰も予想していなかった展開を見せたことだった。江戸時代の出版プロデューサー(吉原出身)が、昨今この時代の黒幕として描かれることの多い治済と関わるどころか、それを退治するなんて。そんな胸のすくような勧善懲悪的な側面も、この物語は持っていた――というか、それもひとつの盛大な夢噺だったのかもしれない。