『べらぼう』“蔦重”横浜流星は何が変わった? 森下佳子脚本の秀逸な夢のリアリズム
『三国通覧図説』を出したことを御公儀に咎められ、耕書堂と同じく「身上半減」の処分を受けた須原屋(里見浩太朗)のもとを、蔦屋重三郎(横浜流星)が訪れるシーンで幕を開けたNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第41回「歌麿筆美人大首絵」。
心なしか弱気になっているご意見番・須原屋に、「目にもの見せてやりましょう。身上半減なんてしたって無駄だ。俺たちゃそんなことでへこたれねえ。何度でもよみがえるって」と息巻く蔦重が、相変わらず心配だ。以前も書いたように(『べらぼう』蔦重と松平定信の“勝利”はどこにあるのか? “悲劇”を生んだ両者の読み違い)、近頃の彼からは、どうもかつてのような「冴え」が感じられないのだ。
「江戸の町を盛り上げたい」――その意気込みは買うけれど、恋川春町(岡山天音)の件もあるのだろう、もちろん自身の「身上半減」の恨みも大いにあるのだろう、「ふんどしのかみ」こと松平“越中守”定信(井上祐貴)をあまりにも意識し過ぎて、本末転倒というか、視野狭窄に陥っているように見受けられるのだ。そんなことでは、持ち前の「穿ち」の精神も、発揮できないではないか。
かつてはのんきに、定信と直接会って「腹割って話せば、分かり合える」と踏んでいた蔦重だが、思いがけず白洲で直接対面することになった2人やりとりは、かなり悲惨なものだった(第39回「白河の清きに住みかね身上半減」)。一介の町人にとっては、雲の上の存在である将軍補佐を前にして、ここぞとばかりに詭弁を弄しながら、果ては相手を愚弄するような言葉を飄々と投げ掛ける蔦重。
身柄を拘束・禁固されたのち、同じ白洲の上で「身上半減」の刑罰を言い渡されてもなお、「真に世のためとは何か……」と戯言を重ねる蔦重の姿を見かねた妻・てい(橋本愛)に、「己の考えばかり……」と泣きながら打擲される始末である。以降、周囲の人々が彼を見るまなざしは、どこか冷やかだ。
もちろん、そこで意気消沈したままの蔦重ではない。書物問屋の株を購入し、耕書堂で書物を取り扱うと同時に、自身の出版物を全国へと流通させる道を模索。戯作が難しいのならば、次は錦絵だ。これまでとはひと味違う美人画のそろいものを出そうと、きよ(藤間爽子)の件以来、関係の悪化していた歌麿(染谷将太)を口説き落とし、『婦人相学十躰』の出板を画策。そこに、錦絵では通常用いられない雲母を使った「雲母摺(きらずり)」を施し、その売り出し方に関しても、当時江戸で流行り始めていた「人相見」を絡めるなど、持ち前の発想力のほうは、徐々に「冴え」が戻ってきたようだ。
そんな蔦重の様子を見ながら「相変わらず商売がうめえなあ」と改めて「感心」しつつ、我がことながらも、そこまでの「関心」は無さそうな、歌麿の様子も気掛かりだ。再び蔦重の仕事を受けることにはしたものの、歌麿の中では、依然として整理のつかない感情があるのだ。「お前を日本一の絵師にしてやる」という蔦重の言葉も、かつてのようには響かない。共に同じ「夢」を見ることは、とても美しいことだけれど、同じ「夢」を共に見続けることは、ひどく難しいことでもあるのだ。それぞれに異なる事情があり、立場というものがある。とりわけ、歌麿の場合は、蔦重に対する秘めたる思いも、そこにはあるようだ。