物議を醸した『ホランド』の謎に迫る 再評価されるべきニコール・キッドマンの演技力
長年の映画界への貢献から、「アメリカン・フィルム・インスティチュート」の生涯功労賞を受賞し、新作映画『ベイビーガール』での鮮烈な演技も話題を呼んでいる、ニコール・キッドマン。俳優として注目を浴び続けながら、ますます勢いを増している彼女が主演するサイコスリラー『ホランド』が、Prime Videoでリリースされた。
映画の舞台となるのは、アメリカ、ミシガン州に実在する町、ホランド(Holland)。住民の多くは白人で、オランダ系移民の子孫が多いため、いまもなおオランダの文化を残し、風車などの異国情緒を楽しめる観光地として知られている。春には数100万本のチューリップが咲き、大勢の人たちが木靴でのダンスを踊る「チューリップタイム祭り」が開かれるほか、巨大なミシガン湖に面した、自然のままのビーチも魅力的だ。
そんな特徴的な町「ホランド」に住む、主人公ナンシー(ニコール・キッドマン)に襲いかかる脅威を描いた本作『ホランド』は、そのラストの解釈によって物議を醸した作品でもある。ここでは、本作の謎めいた部分に迫りつつ、何が描かれていたのかを深く掘り下げていきたい。
※本記事では、映画『ホランド』のストーリーの核心に触れています。未鑑賞の方はお気をつけください。
ナンシーが冒頭で「世界一素敵な場所」と語るように、ホランドはアメリカでありながらオランダらしさを感じさせる、まるで箱庭のようなかわいいらしい印象を受ける町だ。本作の画面は全体的にセピア調であり、町の姿や人々を、郷愁や時代錯誤的な雰囲気とともに映し出している。そんなホランドでナンシーは、町の名士である眼科医のフレッド(マシュー・マクファディン)、小さな一人息子のハリー(ジュード・ヒル)とともに、“幸せな生活”を営んでいる。
しかしナンシーは、度々出張で外泊する夫に、何か怪しいものを感じ始めている。そこで、ナンシーが家庭科教師として勤めている高校の同僚で仲の良い、木工技術を教える教師のデイヴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)に協力を頼んで、彼女は探偵を気取りつつ、夫の浮気調査を始めるのである。
夫への疑惑を次第に深めるなか、違法な行為におよんでまで調査を続けるという秘密を共有しているナンシーとデイヴは、探偵ごっこの刺激も影響し、恋の炎を燃やして自分たちが不倫関係になってしまうのだった。まさに、ミイラ取りがミイラになった状況。
だが二人はやがて、フレッドの真の秘密に気づいてしまう。彼は、不倫をはるかに超える、おそろしい罪を犯していたのだ。このことが分かると、ナンシーやハリー、デイヴは、命の危険にさらされることになる。そして、チューリップタイム祭りが開催されるクライマックスで、ついにナンシーは夫を“撃退”するのである。彼女を守る武器となったのは、皮肉にも伝統的なオランダ風の木靴だった。
さて、問題のラストシーンである。ナンシーが決死の戦いをしている間、デイヴは湖畔のモーテルで頭部を負傷し、その場で休んでいたはずだった。しかしナンシーがモーテルに戻ると、デイヴは消え失せているのである。その後、ナンシーとデイヴの「ときどき不思議になる。あれは現実だったのかと」という語りによって、物語の幕が下りるのだ。
ホランドという町で二人は、さまざまに刺激的でおそろしい、現実ばなれした体験をしたことは確かだ。素直に考えるなら、この最後の“語り”は、夫からの脅威を乗り切ったナンシーと、ナンシーの前から姿を消すことにしたデイヴが、一連の凄まじい出来事に思いを馳せた心の声だと、考えることができる。
だが一方で、このデイヴの不在が、もともと「デイヴという人物は存在していなかったのではないか」という疑問をも生じさせるのである。実際にミミ・ケイブ監督はインタビューで、「デイヴは実際には存在せず、ナンシーはこの関係全体を空想することで真実にたどり着いたのかもしれない」、「映画を振り返ってみると、それは大いに納得できる」と述べている。(※)
ミミ・ケイブ監督の言う通り、もともと、この映画の主人公であるナンシーは、冒頭で「ここに来る前の私は、こわくて混乱していて、誰も信じられなかった……。自分自身さえも」と、ホランドに住む前の状況を説明していたことからも分かるように、物語全体の“信頼できない語り部”でもあった。
彼女は、片方のイヤリングが見当たらないという理由から、ベビーシッターが盗んだと決めつけて詰問している。しかし、ナンシーとは対極のグランジ風のファッションのベビーシッターが、しかも片方だけのイヤリングを盗むだろうか? 実際に冤罪だったことからも、ナンシーにはもともと、被害妄想に近い考えを持つ傾向があることが理解できるのだ。
そう考えれば、彼女が語り出すことで始まった、このストーリー自体が、何もかも信用できなくなってくる。デイヴは存在しなかったかもしれないし、夫フレッドが重罪を犯していたことすらも怪しい。同インタビューでケイブ監督は、クライマックスでのフレッドの死は真実だと認めたものの、果たして映画の内容の、どこからどこまでが妄想だったのか、あるいは妄想でないのかを、分かるようには演出していないのである。こういった曖昧な解釈を許すようなラストは、一般的に「オープンエンディング」と呼ばれている。
だが、いかに「オープンエンディング」といえども、この場合、あまりに解釈の幅が広いのではないかと感じるのが、多くの観客の正直な思いなのではないだろうか。とはいえ監督や、脚本を書いたアンドリュー・ソドロスキーが、あえてこのバランスを選択したというのにも、やはり意味があるはずだ。
通常、「オープンエンディング」を選択する場合、作り手たちはそこで確定しない事柄について、“どのように解釈しても構わない”と考えていることが多い。すでに主題や伝えたいメッセージを描き終えて、それ以外の展開や、登場人物の背景を映し出すことは重要ではないということである。つまり本作ではナンシーの物語が、映画のなかでどこまで真実だったのかという、物語にのめり込んだ観客が当然知りたいと考える点すら、重要ではないということなのだ。娯楽作品としては、かなり挑戦的な姿勢である。