伊藤健太郎の“子供っぽさ”は大きな武器だ 『光る君へ』双寿丸がとにかく愛らしい理由

 NHK大河ドラマ『光る君へ』における双寿丸(伊藤健太郎)と賢子(南沙良)の関係性が、大変微笑ましくてよろしい。彼らを子供の頃から知っている近所のおばちゃんのような気持ちで、温かく見守っている(事実、賢子のことは生まれた時から見ている)。

 高貴で人格者で麗しかった一条天皇(塩野瑛久)がお隠れになり、野心の強そうな三条天皇(木村達成)と道長(柄本佑)が火花を散らしたりして、どうにも大人の世界の雰囲気が悪い。だからこそ、若い2人のまだ恋とも呼べないようなやり取りを見ることだけが、癒しである。

 いと(信川清順)の双寿丸への言動や、汚いものでも見るような目を見るにつけ、この時代の武士(武者)というものは、相当に身分が低かったのだろうと思われる。愛する者の死すら“穢れ”と呼び忌み嫌ってきた彼らからすれば、役職上、人を殺めることもある武士という人種は、汚らわしい存在なのであろう。

 ではなぜ賢子は、双寿丸に対して忌み嫌うどころか好意を抱いているのか。命の恩人だからか。それもあるだろう。ご飯の食べっぷりがいいからか。それもあるだろう。いつの時代も、美味しそうにご飯を食べる人は気持ちがいい。だが、本当の理由は別にある。

 それは、賢子が道長とまひろ(吉高由里子)の娘だからだ。昔、道長とまひろは、非業の死を遂げた友・直秀(毎熊克哉)らの遺体を、自らの手で埋葬した。道長とまひろは、友の死が“穢れ”などではないことを、身をもって理解している。

 もっとも、まだ幼い賢子は、「盗賊から助けてくれた強くてカッコいいお兄ちゃん」としか思っていないかもしれない。「武士=死・殺=穢れ」という思考に、まだ及ばないかもしれない。だがまひろは、双寿丸にまだ三郎だった頃の道長の面影を見ている。

 身分の低い双寿丸は、礼儀を知らない。人様の家に来て「腹減った! めしめしめし!」なのだから、憤慨するいとの気持ちもわからんではない。実際わんぱくに過ぎるので、下手な人が演じれば視聴者からも悪印象を抱かれかねない。意外に難しい役柄である。だが、そこで悪印象どころか好意を抱かせてしまうのが、伊藤健太郎という男だ。

 筆者は伊藤健太郎を見るたびに、小学生の頃によく遊んだMくんを思い出す。自らの小学校中学年ぐらいの頃の教室を思い浮かべてほしい。伊藤健太郎似の同級生が、いたのではないだろうか。おそらく小学生の頃から変わっていないであろうその童顔こそが、彼の大きな武器である。

 双寿丸のような、粗暴で行儀は悪いがなぜか愛されてしまう少年。伊藤健太郎は、現代劇においてもそのような役柄を得意としている。『デメキン』(2017年)やドラマ『今日から俺は!!』(2018年/日本テレビ系)などの、ヤンキー物である。その「子供みたいな顔してケンカは強い」というキャラは、双寿丸が転生したかのようでもある。

 生きている時代を問わず、彼の演じる役柄のケンカ・シーンは、いつも気持ちがいい。若さと勢いに溢れている。双寿丸が賢子を助けたシーンでも、古流柔術的な、“柔(やわら)”的な技術は一切使わない(使えない?)。「技術はなく、ただケンカが強いだけ」という戦い方に、リアリティを感じた。平安中期のこの時代には、まだ徒手格闘的な武術はあまり発達していなかったと思うのだ。

 『デメキン』のラスト、敵対組織の総長(卑怯・陰険・凶悪)を激闘の末に倒し、彼に向かって「今度一緒にラーメン食うぞ」というシーンも、臭いけれどもいいシーンだ。臭いけれども。

 彼のその「子供顔」は、乱闘シーンを陰惨に見せない。血まみれで暴れていても、悪ガキが遊んでいるように見える。楽しそうですらある。得な顔である。

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