『あのコはだぁれ?』はなぜ怖いのか? 『呪怨』シリーズに通じる恐怖演出の数々に迫る

 これまで日本のホラー映画を牽引してきた清水崇監督。世界的なブームとなった『呪怨』シリーズはもとより、数多くのホラー作品を手がけ、近年は「恐怖の村」シリーズなどでも多くの観客を集めている。そんな清水監督による『ミンナのウタ』(2023年)は、予想を大きく超えた衝撃作だった。

 清水監督の新作を楽しみにしながらも、もはや「発明」とすらいえる代表作『呪怨』シリーズのインパクトの強さに並ぶものが、ここにきて出てくるとは、多くの観客も思っていなかったのではないか。くわえてこの作品は、人気音楽グループ、GENERATIONSのメンバーがずらりと出演するというという点で、本格的なホラーとはいささか軸足のずれた、コンセプチュアルな作品だという、事前のイメージが強かったのだ。

 だが『ミンナのウタ』には、“怖さの「最大瞬間風速」”という意味では、『呪怨』シリーズをも超えるとすら思える、強烈なシーンが存在し、観客を震え上がらせたのである。再び原点回帰して“怖さ”に特化したという意味で、これは実質的に『呪怨』の再来といってもいいのではないか。そんな“ネオ『呪怨』”としての『ミンナのウタ』の続編が、早くも登場した。それが本作、『あのコはだぁれ?』である。

 ここでは、『ミンナのウタ』、『あのコはだぁれ?』に共通する恐怖演出が、なぜここまで怖いのかを、両作を振り返りながら、本質的な意味で考えてみたい。“死”にまつわる嫌な記憶を残す可能性がある記述もあるので、もし不安があればブラウザバックしてもらいたい。

 『呪怨』シリーズをはじめとして、これまでも清水崇作品では、時間と空間が異常な動きを見せ、繋がるはずのない場所と場所が繋がったり、過去や未来の順番が狂うなどの演出があった。そしてこれこそが、清水監督のホラー演出における最大の武器であると考えられる。

 『ミンナのウタ』の中盤における問題のシーンは、まさにその武器を研ぎ澄ませて、より完成度を高めつつ、意表をついた展開によって観客の度肝を抜くことに成功した、真にエピックな瞬間だった。間違いなく、ホラー史上に残る名シーンだといえるだろう。

 この成功を経て、続編である本作では、まさに『呪怨』シリーズがそうだったように、基本的な設定はそのままに、さまざまに意匠を凝らした恐怖表現を並べていくショーケースとしての役割をシリーズに与えている。

 物語の中心となるのは、周囲の人々を死に至らしめ、“最期の声”を録音し収集するというサイコパスで、いまはこの世にいないはずの女子中学生“高谷さな”(穂紫朋子)だ。彼女は、いまもなお最期の声を求め、人々を狂わせる不気味なメロディを奏で続けている。

 そんな設定をそのまま継続させ、今回は高谷と同じ学校の中学生たちや臨時教師などの登場人物たちの視点から事態を描いていく本作は、GENERATIONSのメンバーをそれぞれ本人役で登場させていた前作に比べると、むしろオーソドックスな怪談の形式に近づいたといえるだろう。より詳しく高谷さなという人物に迫っていくといった内容にも、特段新たな発見があるというわけでもない。見どころとなるのは、やはり『呪怨』シリーズ同様、豊富なアイデアが発揮された恐怖演出の数々なのだ。

 清水崇監督のすごいところは、常人とかけ離れた発想力にこそある。多くのホラー作品が、すでに“怖い”とされている、既存の恐怖表現に依拠した演出をするのに対し、清水監督は、一見滑稽とも陳腐とも思えるような要素を、こともなげに提出してくる。それは例えば、『呪怨』シリーズにおいて、怨念となった女性や、その子どもが、ベッドに寝ている登場人物のすぐ近くに迫っている姿を、引いた位置で捉えているショットに代表されるだろう。

 そんな突飛ともいえる演出は、一瞬、われわれ観客を戸惑わせることになるが、その心を侵食するように、じわじわと恐怖を感じさせることにる。それは、そこでの“恐怖の論理”が、われわれの想像の範疇の外にあるからだろう。よくよく考えれば、怨念や幽霊という存在が本当に実在するとしたら、われわれの常識に沿った行動を取るのではなく、不条理で、ときに奇妙で滑稽だと思えるようなことをするのではないか。そう思えば、清水監督のアプローチは、逆説的なリアリティがあるのだ。

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