『ブギウギ』はなぜ大切な人たちの死を描いてきたのか “混ぜこぜ”の前半戦を総括

 ドラマ前半を終え、2023年12月29日に放送された『ブギウギ』(NHK総合)の総集編・前編を観ながら、筆者は谷川俊太郎の詩『生きる』を思い出していた。

 小学校の国語の教科書にも載っているこの有名な詩。「生きているということ いま生きているということ それは」という一節に始まり、「ミニスカート」から「いまどこかで兵士が傷つくこと」まで、「くしゃみをすること」から「いま地球が廻っているということ」まで。ミクロとマクロの視点を行ったり来たりしながら事象をランダムに、混ぜこぜに配置することで、すべての「生命あるもの」の営みを書き表した名詩だ。

 前述の詩とは風情が異なるが、『ブギウギ』も、この「混ぜこぜ」が持ち味なのではないかと思う。この物語が描く「生きているということ」とは何か。それは、スズ子(趣里)が歌い、踊ること。鼻水を垂らして泣き怒ること。誰かを愛すること。母・ツヤ(水川あさみ)の愛とエゴ。父・梅吉(柳葉敏郎)の弱さ。弟・六郎(黒崎煌代)の優しさ。花田家の4人がそれぞれ胸に抱え持った秘密。人間の無様さとみっともなさ。だからこその愛おしさ。用を足している最中でも否応なしにやってくる空襲警報。何度耐え難い悲しみに見舞われてもスズ子が歌い続けること。こうした「整然と並べられていない」事柄が、是非とか善悪とかの枠を超えて、フリージャズのフレーズのようにどんどん押し寄せる。

 「生命の塊」がうねって、飛び跳ねるがごとく、ステージで歌い踊るスズ子と対比させるかのように、このドラマには常にうっすらと「死の匂い」が立ち込めている。大和礼子(蒼井優)、ツヤ、六郎。スズ子が愛する人との死別を経るごとに、スズ子の歌は熟成されていく。この苦さと、ある種の皮肉が、本作の基調となっている。通常の和音に「♭9」という、一滴の「濁り」を足すことでグルーヴが生まれるように。やはり『ブギウギ』はジャズっぽい。

 スズ子が梅丸少女歌劇団(USK)に入団したときからずっと憧れ続け、目標にしていた礼子。かつて、舞台人としての「売り」がないと悩んでいたスズ子に向かって礼子は「自分の個性みたいなものはね、いつか必ず見つかるから。続けていれば」と言って励ました。しかし、やがて礼子は持病を悪くして亡くなってしまう。そして、死による礼子との“決別”が「スイングの女王・福来スズ子」を誕生させるきっかけとなる。

 上京して梅丸楽劇団(UGD)の所属となったスズ子は、作曲家の羽鳥善一(草彅剛)からジャズの洗礼を受ける。「ラッパと娘」の譜面をUSK仕込みの歌唱法で歌おうとしたスズ子に、羽鳥はぴしゃりと言った。「大和礼子さんは2人もいらないよ」。礼子への憧れに由来する「無意識下の模倣」から脱却し、スズ子だけのオリジナルを作ること。羽鳥はそれを、「楽しいお方も、悲しいお方も」という出だしを初日に500回練習させることで、スズ子に叩き込んだ。

 香川で行われた「実父」の法要で明らかになったスズ子の出生の秘密。ツヤはそれを最後までスズ子に語らなかった。自分が死んだ後もスズ子が実母のキヌ(中越典子)に会うことなく、自分だけの娘でいてほしいというエゴを抱えたまま、ツヤはこの世を去った。スズ子に生きることを楽しむ術を教え、歌と踊りの道を与えた母は、娘が歌う「恋はやさし野辺の花よ」に見送られて、逝った。

 自分が一人前だと認められたようで嬉しくて、赤紙が来て喜んでいた六郎は、出征前にスズ子のもとを訪れ「死にとうないわ」と偽らざる気持ちを打ち明けた。そして、戦火に散っていった。六郎の戦死の報せを受けて正気を失い、大東亜戦争開戦に熱狂する街の人々の「万歳」に飲まれて、何かが「ぷつり」と切れてしまったスズ子が万歳をする。第47話のラストは本作屈指の名シーンだ。その後スズ子が羽鳥に語った「葬式とお祭りがいっぺんに来たみたいですわ」という心境も相まって、本作の「混ぜこぜ」をよく表している。

関連記事