『進撃の巨人』のメッセージを解説 エレンとアルミン、ミカサが辿り着いた結末の意味とは

 10年間、映像で紡がれてきた『進撃の巨人』の幕が閉じた。突如現れた巨人によって存続が危ぶまれる人類。生き残った人々は壁の中に住んでいたが、ある日それは破壊され、侵入してきた巨人によって目の前で少年の母親は食い殺される。アニメ史上最も残酷でセンセーショナルな第1話の一つとしても知られるこの描写に限らず、これまで作品内で描かれてきた展開における驚くべき真相が、先日放送された『「進撃の巨人」The Final Season 完結編(後編)』(以降、「最終話)」)で明かされた。そこで改めて作品のメッセージとともに、やや難解だった最終話で何が描かれたのか。その意味を考えてみたい。

製作陣の“本気”が映し出された傑作として

 兎にも角にも、本作の内容を語る前に制作陣の素晴らしい作画と演出を称賛したい。アニメオリジナルの描写、作者・諫山創自身の改訳も含め、本当に多くの人が気持ちを乗せた“本気”さをただただ享受できる贅沢は、当たり前に感じられるものではない。10年もの間、役と共に生き続けた声優陣の演技も素晴らしく、特にアルミン役の井上麻里奈による“怒り”と“嘆き”の表現には、感動して言葉も出なかった。放送前にテレビ番組『100カメ』(NHK総合)でも取り上げられていたように、アニメーション制作の現場でも一切の妥協を許さない製作陣の意思が感じられる最終話であった。

 作画、アクションシーンはもちろん、映像表現だからこそできる演出に光るものがあった。行き場を失った人々が崖に追い込まれ、押されて人が海に落ちていくシーンでは母親が誰かに託した赤子を、人々が人類の希望のように前に前にパスしていく。母親と子だけに色をつけられ、特に赤いおくるみに包まれている子は『シンドラーのリスト』で赤いコートを着ていた少女を思わせる。『シンドラーのリスト』においてその少女の存在は、主人公のシンドラーが人間以下と思っていたユダヤ人を救おうと決意するきっかけであり、その後に遺体として登場した時、悲惨な状況そのものを象徴するものになっている。しかし、エレンはこの赤子を見つけることもできなければ、その子のために何かに気づいて自らの意思で地鳴らしを止めることはなかった。そんなエレンの思考を中心に、最終話を振り返ってみよう。

ユミルと重なるエレン

 エレンは進み続ける。始祖ユミルが死してもなお、フリッツ王の言葉に呪われて「道の世界」の中で巨人を生み出し続けていたように。第79話「未来の記憶」でエレンは、ユミルに対して「終わりだ!」「お前は奴隷じゃない、神でもない、ただの人だ」「誰にも従わなくていい、お前が決めていい。決めるのはお前だ、お前が選べ」と強く訴えかけた。“奴隷”という言葉がトリガーとなっているエレンにとって、ユミルの身に起きたことは許しがたかったのだ。これによって彼女の心は動き、エレンは始祖の力を掌握できたわけだが、今考えるとユミルに言っていたことは「未来の記憶」の奴隷になってしまった自分自身への叫びのようにも捉えられる。

 第3章「天と地の戦い」の冒頭では、始祖ユミルが夜に豚を逃がしている様子が描かれた。遡ること3000年前、フリッツ王は家畜の豚を逃した奴隷を集めると、犯人が名乗り出なければ全員の片目をくり抜くと言う。その時、皆がユミルを指差したせいでフリッツ王に「自由だ」と言い渡されるも、その真意は“処刑確定”であり、彼女は王の手下に追われることになった。

 今回の冒頭で明かされたのは、その犯人が本当にユミルだったこと、逃した時に口角を上げていたことも踏まえて犯行が意図的だったことだ。その動機を考えてみると、ただ家畜の豚が“自由”になったらどうなるのか見たかったのだと思う。結果(王による罰則)を考えれば、そんな浅はかな行動は皆とらないのに、彼女はただどうしてもそうしたかったかのように影響を考えずに動いた。それはエレンの常軌を逸した自己の「自由」への欲望と重なるものがある。これについては詳しく後述するが、今はそんなユミルが2000年待っていた人物がエレンではなくミカサだったことの意味を考えたい。

ユミルとミカサと、絶対に捨てないマフラー

TVアニメ「進撃の巨人」The Final Season完結編 ヒグチアイ「いってらっしゃい」

 エレンがアルミンに明かしたように、ユミルを死後2000年もの間縛り続けてきた物の正体は、彼女のフリッツ王に対する“愛”だった。故郷を焼かれ、親を殺され舌を抜かれた相手に神に等しい力を得た後も従順であり続けた理由。それが道でエレンが彼女に触れて感じたことだった。どんなに民にとって酷い行いをしても、どんなに自分に酷いことをしても愛を捨てないユミルの姿は、エレンを想うミカサに重なる。だから、ユミルは自分自身が成し遂げなかったこと……愛し抜きながらもフリッツ王を殺すべきだったことをミカサに託したのである。

 ミカサの頭痛は、エレンの言っていた出鱈目とは違って、ユミルが彼女の頭の中をのぞいていたことが原因だったのだ。そして長い夢の中(道の世界の中)でエレンがミカサと長い時間を一緒に過ごしていたことも最終話で明かされる。そこでは第123話でエレンの「俺はお前の何だ?」という問いに対して、「あなたは家族」と答えなかった(それ以上の具体的な答えを提示した)“もしも”の世界線が描かれていた。「道の世界」と現実では時間の流れ方が違っているため、エレンはここでミカサと本来過ごしたかった時間を過ごせたのである。そして最後に別れを告げながら「マフラーを捨てること」を約束させた。

 それでも記憶を取り戻したミカサはエレンのマフラーを捨てるどころか強く結び直して、彼の首を取りに行く。そして口付けを果たした様子をユミルは近くで見守っていた。エレンのマフラーは、ミカサの変わらぬ愛のメタファーとして描かれ続け、彼女がエンドロールを含む最期の最期まで手放さなかったことが意味する“強い想い”が惨劇を終わらし、ユミルとエレンを呪縛から解放させるために必要な条件だったのだ。この“愛”が全てに打ち勝つというオチはなかなか興味深い。

エレンが「地鳴らし」を決意した真意

TVアニメ「進撃の巨人」The Final Season完結編 Linked Horizon「最後の巨人」

 始祖ユミルとも、彼女の愛したフリッツ王と重なる部分が多かったエレン。最終話のハイライトは、やはりそんな彼による告白と懺悔のシークエンスだろう。その多くが、アニメオリジナルのセリフと描写になっている。彼はアルミンとミカサに限らず104期生の仲間の元へ、すべてのエルディア人が繋がっている「道」の中で会っていた。そして彼はその記憶を全てが終わるタイミングまで消していたのだ。アルミンに対して、これまでひた隠しにしてきた言動の意図を、飛行艇を修理するためにオディハに向かう船に乗っていたタイミングで説明していたことが今回明かされた。そこでやはり重要なポイントになってくるのは人類を8割虐殺してまで「地鳴らし」をした理由である。

 アルミンには「すべては自分を討ち取ったことで人類を滅亡から救った英雄にしたかった」と話しているエレン。思い返せば、第4期の第10話「正論」で鉄道作業の帰り道にエレンは進撃の巨人の継承者を巡る会話で、104期生を中心とした仲間には継承させないと意思表示をしている。そして壁外の人類を虐殺するに至った動機も、すでにここで明示されていたのだ。

「お前らが大事だからだ、ほかの誰よりも。だから、長生きしてほしい」

 エレンはいつも、仲間や自分の自由や安全を脅かされる状況を嫌悪し、それに争い続けてきた。しかし、みんなを守るためと言っておきながらその根底にあったのは「自己の欲求」である。「地鳴らし」はアルミンが胸ぐらを掴みながら怒ったように、“エレンが自分の意思で決めたこと”なのである。その結果、ハンジは死に、仲間も命の危険に晒された。驚くべきは、アルミンに告白している時点でハンジはまだ生きていて、エレンは彼女が死ぬ未来をその時点で知っていた(それについてどうもしなかった、またはできなかった)ことだ。

 アルミンの怒りに対して何度も未来を変えようと試みて失望し、結局変わらなかったと告白するエレン。しかし、その試みとは自分が求めた「自由」を実現させながらも世界中の人を虐殺しない方法を探すことであり、結局「争いはなくならない」ことを悟って両方をとることができないことを知った上での絶望だったのではないだろうか。つまり、彼は8割の人類を虐殺してまでも、最終的に自分の「自由」を実現したい気持ちを優先したのではないだろうか。この辺りに、幼少期から彼が持っていた“異常性”が顔をのぞかせている。

 彼は常に「自由」に執着し、自分はもちろん大切な人のそれや安全が危ぶまれたり侮辱されたりする場面で“かなり”強い嫌悪感を表してきた。しかもそれは物語の冒頭ですでに描かれており、「その日、人類は思い出した〜」で始まる有名な第1話の一節「鳥籠に囚われていた屈辱を」とナレーションがかかる瞬間、幼いエレンが尋常ではないくらい怒っている目が映されている。そして第79話「未来の記憶」でジークの記憶ツアー中に、父グリシャが始祖の巨人の能力を持つフリーダと子供達の前に立ちはだかった場面に出くわした時のこと。先祖の侵した罪や事情を知らないまま巨人に食べられることは間違っている(戦うべきだ)と主張するグリシャに対して、「不戦の契り」を立てているフリーダは「記憶を持つ者がいくら反省したところで、エルディア人が過去に奪ってきた人々の命を戻すことはできない。しかし、壁の外の人類の命を奪うことを防げる」と説いた。この言葉を聞いた瞬間、グリシャの記憶を覗いていたエレンは死ぬほど怒りをあらわにしている。そして自分の父親に都合の良い記憶だけを見せたり説得させたり、壁の王や世界と戦うように仕向けたのだ。

 彼の「自由」に対する執着心や本来持つ破壊衝動のような危うさは幼い頃、ミカサを守るためとはいえ誘拐犯を滅多刺しにしたエピソードでも表れている。その「自由」への欲求が仲間のためという大義以上に、エレンの本質的な動機になっていたことが本人の告白から窺える。欲求に抗えなかった。自分の用意してしまったシナリオから逸れることができなかった。それは原作者の諫山が「The New York Times」でのインタビューで答えた作者としての苦悩……最初から決まった結末を念頭に物語を進めたが、その後多くの人に読まれるようになって自分に大きな力が与えられたことへの当惑、漫画を描くことは自由であるはずで、結末も変えることができたはずなのに若い頃に思い描いたものに縛られた結果、自分自身もシナリオを変えられなかったことへの気づきとメタ的に呼応している。誰よりも「自由」を求めたキャラクターは、書き換わることのない脚本(自分の決めた未来)の中で皮肉にも誰よりも不自由だった。それゆえにエレンは自身を“自由の奴隷”と称したのだ。

 原作ではただ驚いた表情でエレンの言葉を受け止めていたアルミンは、アニメでは言葉を尽くしてエレンに訴えかける。戦争とは何度も繰り返されるものだけれど、それでも「いつの日か分かり合えるかもしれない」というささやかな願いさえ誰も信じなくなってしまったと、嘆くアルミン。ここで常に「対話」で解決しようとしてきたアルミンと、対話を拒絶して「戦い」で解決してきたエレンの違いが浮き彫りになる。本来ならサシャの父親がかつて言っていたように“森を抜け出すために考え続けること”を皆が実感することが大切だった。しかし、「地鳴らし」という度を超えた惨事を体験してしまった人々に残る教訓は、対話の大切さではなく“殺すか殺されるか”の感覚である。つまり、世界は“森”を彷徨い続けることになる。エレンもそうなることくらいわかっていた(争いが止むことはないとわかっていた)、それでもやはり仲間を守ること、世界に気づきを与えること以上に“平になった景色が見たい”自由への欲求が優先されたのだ。アルミンの嘆きに耳を傾けるエレンが、ようやく何かに気づいたようにハッとするかのように目を見開いた様子は印象的だった。

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