『マスクガール』が優れたドラマとなった理由 ネガティブな社会問題と現代的な視点が鍵に

 そんな“外見至上主義”社会のなかで、モミ以上に鬱屈した日常を送っている、同じ会社で働いている男性が、第2話の主人公オナム(アン・ジェホン)である。彼は母親から結婚相手はいないのかと言われ続けているオタク気質の人物だが、恋人はおらず、等身大の人形を恋人に見立てて食卓を囲んだり、モミのライブ配信を彼女とは知らずに課金するなどして、妄想のなかに逃げ込む日常を送っている。そんな性質や悲惨な境遇はいつしか、身勝手な思いを女性にぶつけるストーカーへと彼を変貌させ、窮地に陥ったモミの事態をさらにエスカレートさせていく。

 戦慄するのは、一見無害で優しそうに見え、男らしさを顕示するマッチョさからは遠いところにあると思えるオナムが、ひとたび女性に接するとき、相手を物であるかのように扱う一面が垣間見えるところだ。これは、女性への差別や偏見を含む、いわゆる“有害な男性性”が、強者としてふるまう男性以外にも備わっている場合があることを示す描写だといえよう。

 このように本シリーズは、ただ社会問題にフォーカスするだけでなく、その渦中にある人間たちの心理の深いところまでを掘り起こし、人間の本音の部分をまざまざと視聴者に見せつけるところが、他のドラマ作品を圧倒する点だと考えられるのである。

 さらに本シリーズは、エピソードとともに異なる登場人物に視点が移り、母親の子どもへの執着や、女性たちの連帯、インターネットに映像や画像が残り続ける「デジタルタトゥー」問題などを映し出していく。それはまさに現代社会の暗部であり、韓国社会の“いま”の姿をネガティブな切り口で紹介する、一種の“地獄めぐり”だといえる。そしてむしろ、このようなアプローチをとれるところが、韓国エンタメ界のえげつない強さであり、逆に一種の真摯さでもあるといえるのかもしれない。

 “呪い”に包まれた韓国の地獄の旅は、ついに最終話にて、まだコメディタッチが見られた1話の時点では誰も予想しなかっただろう、遠い遠い場所まで視聴者を運ぶことになる。聖と俗、醜と美、絶望と希望、そして身勝手な欲望と自己犠牲……。このような両極こそが、本シリーズ全体が真に見せようとする落差なのだ。

 かつて映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグは、ドイツ映画の名作『嘆きの天使』(1930年)で、同様にコメディから哲学的といえるシリアスな問題へと、一気に変転させてしまうという、はなれ業を成し遂げ、深い人間ドラマに観客を引き込むことに成功した。本作『マスクガール』もまた、一見すると低俗といえる興味を喚起しながら、崇高なところへと上がっていく点は、『嘆きの天使』のような作品構造を利用しているといえる。

 だが『嘆きの天使』が、あくまで女性という存在を、悪魔でもあり天使でもあるといった、象徴的、神話的な描き方をしているのに対し、本シリーズは女性という存在を、あらゆる欲望や感情が含まれた、良いところもあれば悪い部分もある“人間”として描いているところが異なる部分だ。このような現代的な視点が含まれているからこそ、そして同時にネガティブな社会問題をはらんでいるからこそ、いまこのシリーズが世界に配信される意義があるものになったのだといえるのではないだろうか。

■配信情報
『マスクガール』
Netflixにて配信中
Jun Hea-sun/Netflix © 2023

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