宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 第3回『千と千尋』から『ポニョ』まで
『崖の上のポニョ』(2008年)――「祝福」と「肯定」の実現
「老い」は、次作『ハウルの動く城』(2004年)の主人公ソフィーが、少女と老婆を行き来するという描写で、ダイレクトに扱われている。この表現を理解する手助けになりそうなのは、このような宮﨑の体調についての発言である。
「若い時は『今日は調子出ない』とかひとつの波だったものが、今は刻々と変わるんです。『今日は調子いいなあ……あぁ、調子悪い。なんとか持ちこたえよう』とか波が激しいんですよ」(『続・風の帰る場所』p45)
『ハウルの動く城』は細田守が途中まで監督をしていて、宮﨑は後から引き継いだわけなので、ここでは詳述を省略し、『崖の上のポニョ』の話をしたい。これもまた、老いと、波と、あの世の話だからだ。筆者は、本作を宮崎駿の最高到達点のひとつであり、最高傑作のひとつであると考えている。
『崖の上のポニョ』は、キャラクターなどの線を減らし、代わりにダイナミックなアニメーションを展開している。アニメーションの快楽の本質を考えてのことだという。舞台は広島の鞆の浦がモデルと言われているが、ここに水俣湾の残響を見ることもできる。映画の冒頭は、プランクトンまで描かれた、あまりに豊饒な海の生命から始まる。アニミズムを描くという宮﨑の意図が、画面レベルで最も発揮された場面のひとつであろう。
主人公である五歳の宗助と、ポニョは、幼児らしい生命力とエネルギーに満ちた存在で、彼らが見事に活写される。それは、ジブリのスタッフに子供が生まれてきたことも関係しているという(2008年には「3匹の熊の家」という保育園も開園しているほどだ)。そのことが、宮﨑の思想にも影響したと思われる。
「目の前にいるチビたちを見てね、これを祝福せざるをえないじゃないか」(『続・風の帰る場所』p35)
「五歳はまだ神に属していてこの世の男にはなりきれない最後の年齢です」(『折り返し点』p494)
「文明の全体のことの中に突然、赤ん坊がひとり発生しちゃうっていうね。そこに橋が架かってないんですよね。橋が架かってないんだけど、その子が笑えば世界は祝福されるんだって思うほうが納得できるんです。この子を泣かせたらこの世界は、もう話にならない。なんか、ものすごく飛躍してるんですよ。その間の中間事項がどれだけあるのかわからないんだけど。たぶん、あんまり自分たちで埋めることはできないんです」「僕らは分裂して生きてるんだけど。でも、やっぱり勝つのは赤ん坊のほうなんですよね(笑)」(『続・風の帰る場所』p57、58)
世界史・人類史的な困難の中で生きる若者を祝福しようという考え方は、本作で頂点に至る。イデオロギー的な絶望から来る、アニミズムによる救済の感覚は、赤ん坊や幼児たちの元気や笑顔にカミ=アニミズムを見るということにつながっていく。そこに「中間」「社会」がない、いわゆる「セカイ系」の構造になっていることに、宮﨑は自覚的でもある。
困難な時代を生きている子供たちを祝福する、この世界を肯定したい、という宮﨑の長年の祈願は、この作品において最も華々しく実現している。『もののけ姫』のときには人類は祝福されていないかもしれない、という考えだったのに対して、ここでは「祝福せざるをえない」し、むしろその子によって世界が祝福される、という考え方に変わっていることに注目される。
「あの世」と老人向けファンタジー
『千と千尋』と同じく、水浸しになった世界は、あの世への橋掛かりだろう。天と地が一体となり、空が水面に映り境界が曖昧になっていく。つまり、ここでは生と死の二項対立、境界も曖昧になっている、そのような「橋掛かり」のようなものが描かれていると考えていいのではないか。
海は異界であると渋谷陽一は指摘する。彼に、異界と現世(街)の距離が近くなっていることを指摘され、宮﨑はこう言っている。
「そうですね。友人がずいぶん向こうに行ってますから。天国とか地獄とか何もないんですけど、僕は。だけど、またどうせ会うんだっていうふうに思ってるところはありますね」(『続・風の帰る場所』p49)
水没した老人ホームで、車椅子の老婆たちが走れるようになっているのは、本作の老人向けファンタジーの側面だろう。子供向けの部分と、老人向けの側面、両者を同居させ分裂させながら作品を成立させている点は、『千と千尋』と同じなのかもしれない。老人ホームは水の中にあり、ポニョの母の魔法で助かっているが、魔法がなければ、水没し宗介の母親とともに死んでいる可能性が高い。『千と千尋』と同じようにトンネルを抜けた先にあるあの場面は、あの世のようにも見えるし、ひょっとすると母の死に直面した宗介の幼い心が作り出したファンタジーのようにも見える。
本作が描いた異界や悟りの境地は、『千と千尋』の電車のシーンで辿り着いたような、静的なものとは異なる。もっと動的な、人間の生命力、子供たちの活力、災害から立ち直る人間や生命の活力それ自体を信頼することから来る、悟りのようなものがここにある。それは同時に、老いや、自身の死をも肯定し受容することと繋がっているだろう。
本当に自然や人間を肯定し祝福することが出来るのか?
だが、本当に、こんなに底抜けに肯定してもいいのだろうか? 実は本作は、極めて恐ろしい内容をも描いている。それでも「肯定」「祝福」するのだ、という、大変スリリングな提案をしている一作なのである。
一見、ファンタジーで陽気な作品なので騙されそうになるが、実際のところ、かなり際どい内容であるようにも見える。五歳の男の子が、海などで生命の危険がある場所で遊んでおり、自然が生命を奪う危険なものであることははっきりと描いている(『千と千尋』と同じように、小さい子供を見守りハラハラする作劇が採用されている)。
無邪気で無垢な自然の象徴であるポニョは、津波を起こして街を沈めてしまう。本来なら、船の乗組員や街の人々は大量に死んでいるだろう。かわいい顔をしているが、大変危険な破壊的な側面を持つ存在であるポニョ=自然=アニミズムとの共存を「肯定」するというのは、実は相当な覚悟がいることなのであるが、徹底的に開き直ったのが、本作の凄みである。
ポニョが宗介に会いに来た時に起こったことは作中で「津波」と呼ばれている。災害を起こすような自然との共存を、宮﨑は明確に意識している。
「で、みんながへこたれてないっていうね。能登半島の地震の時にペッシャンコに潰れた家の前でおじいさんが『いやぁ、全部潰れちゃいましたよ、あっはっは』って言ってる映像を観て、ものすごく嬉しかったんですよね」「みんな無くなっちゃったから一生懸命やっていこうっていう」(『続・風の帰る場所』p43)
自然を肯定する、アニミズムを肯定するということは、必然的に、自然災害による大量の破壊や死を肯定しなくてはならないということになる。そんなことが可能なのだろうか? 宮﨑は、災害のあとの、災害ユートピア的な、躁的防衛のような強さが人々にあることを一つの根拠に、災害まで含んだ自然を肯定しようとする意志を本作で見せているように思う。そのような活力=カミが人間の中にあることを根拠に、丸ごと自然を肯定して見せようとしているようにも見える。
しかし、それはアニメーションやファンタジーによる誤魔化しなのかもしれない。スーザン・ネイピアが「津波時代のポニョ」(『3・11の未来』)で論じているように、東日本大震災を経験した我々は、このヴィジョンを素直に肯定することは難しいのではないか。
自然の二面性だけでもなく、科学や人間の二面性はどうだろうか。『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』と続いてきた「科学」と「自然」の問題も、本作には引き継がれている。ポニョの父のフジモトは、陰気なインテリで「弱い父親」の象徴だが、自然を賛美し守ろうとしており、人間を嫌悪している(その割に、科学を使っている)。『もののけ姫』におけるサンに相当する人物のデザインであるが、ほとんどコメディ・リリーフのように扱われており、ポニョやその姉妹たちの生命の勢いに圧倒されっぱなしである。
「(フジモトは、引用者註)人類の将来とか文明とか地球環境とか、いろいろなことを悩みながら、ほんとに無力なんですよね」(『続・風の帰る場所』p56)
彼は、ポニョを「閉じ込め」ており、ポニョはそれに反発する。そして、湯婆婆と同じように、潔癖症である。水道水、ハムなど、人間の工業的な要素が加わったものは「汚れている」と感じ、ポニョに与えたがらないのだ。自然派のママのような造型が見え隠れし、その「自然志向」がむしろポニョの自然を押し殺しているという皮肉もまた表現されている。企画書には、「神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである」(『折り返し点』p489)との言葉も見える。
人間だったのにそれを辞めようとするペシミスティックなフジモトに対し、娘のポニョは、人間になろうとする。カルキの入っている水道水でも平気だし、食品添加物の入っているハムも大好物である。『風の谷のナウシカ』漫画版後半や、『もののけ姫』で描いた、科学などで汚染されたこの世界を肯定しようという思想を、悲壮な覚悟なく実現してしまっているのがポニョなのだ。ポニョは人間を愛し、むしろ人間になろうとするという点で、サンの逆なのである。
「でも肯定的なメッセージを作ろうとは思ってやってないんだ。かなり皮肉に作ってるはずが映画を作っているうちに浄化されていったんですよね。それで最後は『こんな底抜けな肯定でいいんだろうか?』って感じで終わっちゃうという」(『続・風の帰る場所』p29)
この発言から分かるように、様々なアイロニーや陰惨な主題が確かに仕込まれてはいるのだが、それらを全てのみ込む生命のダイナミズムと肯定感が本作ではなぜか実現してしまったようなのだ。
津波が起こるのは、フジモトが人間の浄化を考え貯めた「命の水」によってでもある。自然と科学の両者が協働し大災害を起こしている、そしてその全てを肯定し受容する、という本作は、なかなか危険なことを言っているし、危険なことを言っている自覚が作り手にあるからこそ、後半部が夢や妄想の類ではないかというアイロニーをも仕込んでいるのではないかという解釈にも誘われるのだ。
さて、本作で至った「肯定」「祝福」の境地に、疑義を突きつける世界史的な事件が起こってしまう。東日本大震災である。本当に災害をも含む自然を肯定できるのか、人間の復興する生命力を信じられるのか、科学と自然の関係において人間の行いをも「ありのまま」に受容することができるのか、という問題は、東日本大震災と福島第一原発の事故によって、現実として、大きな疑問を突きつけられる。20,000人近くの生命をいきなり奪う自然、ある土地を深刻に汚染し収束する目途すら立たない原子力という科学技術を、本当に受容し、肯定し、祝福することができるのだろうか。
世界史的な事件により、自身のこれまでの思想や作品を否定し新しく作り直さざるを得ない宿命を負い続けてきた宮﨑は、最晩年の、「祝福」と「肯定」を描きたいという念願が叶った作品の直後に、それらを否定せざるを得なくなってしまうのである。
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