『だが、情熱はある』に多くの人が没入した理由 ドラマ化の壁を乗り越えた再現度
『だが、情熱はある』(日本テレビ系)のようなドラマは、これまでの常識で考えると、作ることが難しいとされるタイプのドラマではないだろうか。理由はいくつかあって、今も活躍中の人物の半生を第三者がフィクションに書き換えることは難しいということ、芸人の物語をドラマ化するとき、ネタの部分が弱くなってしまうこと。また、現代社会にある、そこはかとない生きづらさのようなものを言語化し、ドラマ化することも容易ではないということなどがあるだろう。
しかし、これらの難しさを、『だが、情熱はある』は乗り越えているのがわかる。
生きてる人間のことを描くことについては、山里亮太と若林正恭というふたりの芸人が、自身を表す書籍を出していることや、長年にわたりラジオを行っていることからその人となりやエピソードを抽出することができる人物だったのが大きいだろう。それと同時に、日本テレビが主宰するライブ『潜在異色』で出会い、その後、出演してきたバラエティ番組『たりないふたり』(日本テレビ)を追うことによって、ふたりが変わってきた変遷を描くことに成功した。感動秘話として崇めすぎたり、照れ隠しで笑いに変えすぎない制作陣の真摯さも伝わってくる。
これまでにも、芸人の半生を基にしたドラマや映画、小説はたくさん作られてきた。その中で、お笑いファンとして思うのは、芸人の登場人物たちがネタをする場面で、実写化作品の場合は、本物のネタのようには笑えない部分があることも多いということだ。そのことで、作品を観ていても、現実に引き戻されるような部分があった。
しかしこのドラマは、実際のコンビである南海キャンディーズとオードリーを描く作品であるから、彼らがやってきた本物のネタがある。もちろん、そのネタを単に完コピすればいいというものではないが、俳優たちが本気でその間合いまでも実現していたからこそ、観ているものを現実に引き戻さなかった。それどころか、その再現度に感動すら覚えるほどであった。
特に、2008年の『M-1グランプリ』敗者復活戦でのオードリーの“ズレ漫才”は、約4分間のフル尺漫才となっている。6月11日の『オードリーのオールナイトニッポン』で若林は、このシーンについて、「漫才部分は、役者さんはできないだろうから、後ろ姿とかだけでいこうっていうのだったんだって、最初は」「したらあの4人がすごすぎて、話題にもなったし、似てるって、できちゃうからフルで漫才やろうってなったんだって、途中から」と語っている。
俳優が、現実の人物やキャラクターを演じるとき、その再現度をどのくらいに設定するかは、そのときどきによって判断も違うだろう。しかし、このドラマでは最初から、リアルな再現にふりきっていたことが、功を奏しているように思える。
韓国の映画人に取材すると、日本の作品のことを、「なにも大きな出来事は起こらないのに、でも人間の内面にはなにかが確実に起こっている」と言っているのに出くわすことがある。映画『チャンシルさんには福が多いね』でも、映画製作の現場で働いてきた主人公が、このことを力説するシーンがあるほどだ。
『だが、情熱はある』も、その視点からすると、起承転結の物語として、起伏の激しい展開があるわけではなく、淡々とした(ように見える)日常を描いているのに、人を惹きつける物語になっている。そこには、そこはかとない生きづらさなども描かれている。