『コタローは1人暮らし』が広げた“家族”の枠 横山裕と川原瑛都の関係性が続くことを願って

 「ごめんね」と言われたら、「いいよ」と言わなければならない。だって、そうでもしないと、許さない方が“悪”みたいになってしまうから。

 嫌なことをされたのはこっちなのに、「謝ってるんだから、許してあげなきゃ」と言ってきた先生。「許してあげてえらいね」と大袈裟に褒め称えてきた大人たち。小さい頃から、“許す=えらい”という方程式を植え付けられてきたからだろうか。自分の気持ちを押し殺して、「全然気にしてないよ」と笑うのが当たり前になっている。

 だけど、『帰ってきたぞよ!コタローは1人暮らし』(テレビ朝日系/以下『コタロー』)の最終話を観て、ふと立ち止まることができた。私は……というか、狩野(横山裕)や美月(山本舞香)らアパートの清水の住人たちも、父親(滝藤賢一)を許す選択をしたコタロー(川原瑛都)のことを、「えらい」「大人だなぁ」と思ったはずだ。

 でも、本当にえらいのは、自分の気持ちを騙して我慢することじゃない。嫌なことはしっかり「嫌だ」と言えて、自分が幸せになれる道を開拓していけること。強くなりたかったコタローは、アパートの清水での日々を通して、弱さをさらけ出せる強さを手に入れたのだ。

 コタローが幸せになれる道を選べたのは、幸せになってほしいと願ってくれる人がいたからだと思う。もしも、狩野や小夜梨(紺野まひる)に「幸せになってね」と言われていなかったら、我慢をしたまま父親と暮らす選択をしていたはずだ。ずっと、まわりの人を幸せにすることばかりを考えてきたコタローは、自分の幸せと向き合ってこなかったから。

 まわりの幸せをいちばんに考える人生はラクだ。「いやいや、自分の幸せを考えて生きた方がラクでしょ」と言われるかもしれないが、個人的には、他人に軸があった方が生きやすいと思う。そうすれば、相手に合わせて流されていればいいし、他人を傷つけずにすむ。

 だからこそ、コタローが自分軸で生きることを選んだ瞬間は、鳥肌が止まらなかった。小さな身体でたくさんのことを考えて、自分が幸せになれる道を選んだのだ……と。あのまま流されるように父親と暮らしていれば、“いい息子”にはなれたはず。でも、コタローはわざわざしんどい道を選んだ。

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