視聴者自身も『エルピス』の“細胞”の1つだった “信じる”ことで変わる世界を見せた最終話

 全くもっていい最終話だった。ドラマ『エルピスー希望、あるいは災いー』(カンテレ・フジテレビ系)のことである。

 「目の前の人間を信じられるという喜び」こそが「希望」。恵那(長澤まさみ)が辿りついた答えは、本作における一貫したテーマだった。それこそ、さくら(三浦透子/幼少期:根本真陽)の記憶の中にある、松本(片岡正二郎)が誕生日に作ったカレーを、警察の主張通りのタイムスケジュールで再現しようとして無理だった、決して美味しいとは言えないものを向き合って頬張る恵那と拓朗(眞栄田郷敦)の話から、この「信頼」の物語が始まっていたように。

 そして、全てをやり遂げた後の2人は、それだけで「なんとかなる気がしてくる」大盛りの牛丼を嬉しそうに頬張る。さらに、遅れて店に入ってきた男性の後ろ姿が村井(岡部たかし)であることは、彼を迎える2人の満面の笑みから容易に想像できて、彼も含めた3人が互いにとっての「信頼できる人」であることが示される。それによってこの物語が、恵那と拓朗だけでなく、村井の物語でもあったことが明らかになる。さらには、後日談として描かれた、さくらが松本に作るカレーのエピソードも、前述した一連の流れに呼応する物語でありながら、それまでのエンディングにも呼応し、視聴者に訴えかけるものでもあった。

 本作は、渡辺あや脚本、佐野亜裕美プロデュース、演出に大根仁、音楽に大友良英という布陣で作られた屈指の社会派エンターテインメントである。日本の社会における、働く女性の苦悩を的確に体現しつつ、真っ直ぐな、自分の感情に嘘がない女性・恵那を演じた長澤まさみ。ひげ面のワイルドな姿と、母親に溺愛される「お坊ちゃん」育ちの小綺麗な身なりを行ったり来たりする、常に「バージョンアップ中」の拓朗を演じた眞栄田郷敦。一見とんでもないセクハラ・パワハラ男かと思いきや、報道人としての矜持も悲哀も優しさも見せた「バブル世代」を体現する村井を演じた岡部たかし。そして、一見魅力的に見える話術の裏に決して信じてはいけない恐ろしさを滲ませる斎藤を実に巧妙に演じた鈴木亮平。その全てが素晴らしかった。

 本作は、マスメディアによる自己批判の一面、さらには実在の複数の事件から着想を得て制作された、ある死刑囚の冤罪疑惑を通して日本全体の闇にまで切り込む社会派ドラマとしての一面を持つだけでなく、それを組織における個人の葛藤の物語として描いた。

 本作の何よりの魅力は、あえて確固とした「相克の関係」を作らなかったことではないか。もちろん現副総理大臣・大門雄二(山路和弘)と、彼の圧力によって守られてきた真犯人である本城彰(永山瑛太)といった、ちょっとやそっとでは太刀打ちできない存在も描かれているのであるが、私たちの世界の「曖昧さ」を巧みに用いて、人と組織、国、そしてマスメディアと視聴者の関係性について核心を突いている点が興味深かった。

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