『アダムス・ファミリー』とは別物として楽しみたい スピンオフ『ウェンズデー』の可能性

 本作が表現する世界では、むしろ「普通の人々」こそ、暴力的で恐ろしい存在だ。大多数とは異なる感性を持ち、犬ではなくサソリをペットにしていた、小さい頃のウェンズデーに対し、「普通の子どもたち」は、常軌を逸したサディステックさを見せつける。それはまた、本作で描かれた魔女狩りの光景へと重なってゆくのだ。

 クリスティーナ・リッチがウェンズデーを演じていた『アダムス・ファミリー2』(1993年)でも、サマーキャンプに参加することになったウェンズデーたちが、舞台劇用のアメリカ先住民の衣装に身を包んだまま、人種差別や体が弱いなどの理由で阻害されていた子どもと連帯し、キャンプ場を占拠して革命を達成してしまうという一場面があった。歴史のなかでは、「普通の人々」こそが道を踏み外して暴力性を発揮し、少数者を弾圧するといったことは、何度も繰り返されてきた。そういうときこそ、他とは違う考え方や感性を持っている者が、むしろ正常な位置にいるということになる。だから、異常な時代にはアダムス一家のような人々の存在が救いとなるのである。

 だが本作では、そんな圧倒的な個性と強さを家族から最も引き継いでいるはずのウェンズデーが、友情や恋愛、助け合いなど、彼女の価値観の対極にあるような事柄に接近して、逆に学びを得るところも描かれる。アダムス一家に奇妙な連帯や愛情が存在するように、信頼できる人との出会いがあれば、深い繋がりや感情の共鳴が発生することもあるだろう。

 このように、本作でマイノリティへの弾圧を描きながらも、他者と心を通わせられる前向きな可能性や、最終的に一人の少女の人間性を温かく表現したという点については、かつて自身が変人として見られ、奇妙な存在への共感を強調してきたティム・バートン監督が撮っているからこそ、一種の感動を覚えるところである。

 とはいえウェンズデーは、あくまで人間性を超越した、奇妙で理解されざる存在であってほしかったというのも正直なところだ。この場合、描かれる成長は、ある意味で後退にも見えてしまう部分がある。その意味で本作は、あくまで『アダムス・ファミリー』の設定を基にしながらも、その本質からは逸脱した一つの可能性の物語であり、独立したシリーズとして楽しみたいドラマだ。

■配信情報
Netflixシリーズ『ウェンズデー』
Netflixにて独占配信中

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