『ディーバ』は世界をブルーに塗りつくす 共鳴を起こした「シネマ・デュ・ルック」

 「初めての映画作り。空は青かった。エディット・ピアフは“もっと青く”と歌っていた。空の青さだって、あなたの瞳の青さには勝てやしない」(ジャン=ジャック・ベネックス)*

 もっと青く! ジャン=ジャック・ベネックスによる驚愕の長編デビュー作『ディーバ』(1981年)には、パリという都市をブルーの絵の具で塗りつくしてしまおうとする映画作家の野心が炸裂している。ネオ・バロック的ともポップアート的ともいえる美しくデザインされた構図の連続。1980年代の表現主義。ウットリしてしまうほどキメキメな構図は、マルク・シャガールの絵画のようなブルーに彩られていく。ネオンや濡れた舗道、コンクリートの空間を祝祭的に、そして呪術的に彩る「ディーバ・ブルー」。

 郵便配達員の青年ジュールはオペラ劇場に入り、高い天井を見上げる。大好きな黒人ソプラノ歌手シンシア・ホーキンスの歌声に涙を流すジュール。この冒頭のシーンだけで、本作には音楽への信仰が描かれていることが分かる。ジュールにとってオペラ劇場は、教会のように神聖な空間なのだろう。しかしジュールは無断でシンシアの歌声を録音する。あくまで個人で楽しむために。ここに海賊盤をめぐる、偶然と大いなる誤解を含んだ犯罪劇が始まる。録音テープをめぐって、ジュールは殺し屋からも探偵からも追われるハメになってしまう。ベネックスの劇映画引退作となった『青い夢の女』(2001年)の冒頭が、オペラ劇場の客席から見下ろす悪魔の絵画から始まることは興味深い(しかし、なんとベネックスを象徴するような邦題だろう!)。『青い夢の女』の主人公の部屋にはアジア人の女性が出入りしている。このことは『ディーバ』における謎のベトナム人少女アルバの記憶と、おそらく映画作家による意図的な符合を示している。悪魔が見下ろすブルーの世界。ベネックスは再び世界を青色で塗りつくす。空よりも青いあなたの瞳に近づくために。もっと青く!

 シンシアはライブパフォーマンスにこだわり、レコードを残すことを頑なに拒否している。彼女のパフォーマンスは、その場にいた者だけが共有できる。この瞬間にしか体験できないもの、すぐに消え去ってしまうものを大切にするシンシアの尊い望み。同じようにベネックスもまた、失われつつあるものを『ディーバ』という作品の中に詰め込んでいく。失われつつある都市の風景。失われつつある乗り物。失われつつある音楽の文化。それが本作をこの時代のモニュメントとして決定的な作品にしている『ディーバ』はフランスで口コミが広がり、3年近くに渡る超異例のロングラン上映を果たすことになる。

シネマ・デュ・ルック

 映画評論家ラファエル・バッサンは、1980年代のフランス映画界に彗星のごとく登場したベネックスとレオス・カラックス、リュック・ベッソンという3人の映画作家の作品を「シネマ・デュ・ルック」と名付けた。

 カイエ・デュ・シネマ誌を母体としたヌーヴェルヴァーグの映画作家たちと違い、この3人の映画作家の間に連帯はない。クロード・ベリ等の助監督として10年以上のキャリアを積んだ上でデビューしたベネックス(その中にはジェリー・ルイスによる伝説の未公開作品『道化師が泣いた日』もある)。10代でカイエ・デュ・シネマに批評や映画祭レポートを寄稿、23歳で恐るべき初長編作品『ボーイ・ミーツ・ガール』(1984年)を撮ったカラックス。『最後の戦い』(1983年)を24歳でセルフプロデュース作品として撮ったベッソン。ほとんど共通項がないような3人の映画作家ではあるが、各々の長編デビュー作には大胆な「不敵さ」が刻まれている。

 とても低予算映画には見えないほど徹底的にゴージャスに作り込まれた異形の犯罪映画『ディーバ』のルック。映画作家自身のナイーブさが剥き出しにされた「私映画」ともいえる『ボーイ・ミーツ・ガール』。そして全編台詞なしのSF活劇『最後の戦い』。それぞれが大胆不敵な志向でデビューしている。そして3人ともプロダクション・デザインへの徹底的な作り込みからキャリアをスタートさせている。

 『ディーバ』の成功の後に、イタリアのチネチッタで隙がないほどデザインされた『溝の中の月』(1983年)を撮ったベネックスは、興行的にも批評的にも大惨敗してしまう(しかし見直されるべき傑作だ)。ベアトリス・ダルとジャン=ユーグ・アングラートを主演に迎えた永遠の傑作『ベティ・ブルー』(1986年)では、前作の反動であるかのように俳優の魅力に引き寄せられるような撮り方をしている。無邪気な少女のように振る舞った次の瞬間に獰猛な攻撃性を見せるベアトリス・ダルには、前作でナスターシャ・キンスキーの美しさを捉えた際の、画面の瞬発的な強度から得た応用を感じずにはいられない。かつて俳優を彫刻であるかのように撮っていたベネックスは、『ロザリンとライオン』(1989年)でも当時の恋人イザベル・パスコの魅力に引き寄せられるような撮り方と、この映画作家生来のデザイン性を見事に融合させている。

 カラックスもまた、『ボーイ・ミーツ・ガール』や『汚れた血』(1986年)における俳優の撮り方への反動として永遠の傑作『ポンヌフの恋人』(1991年)を撮っている。カラックスは最初の2作品を、死んでしまった映画作家と対話するような映画だったと形容し、『ポンヌフの恋人』を初めて仲間と撮った映画だと位置付けている。ほぼインタビューに応じず、謎のベールに包まれていた初期のカラックスを『ポーラⅩ』(1999年)の主人公ピエールのイメージに重ねることも可能だろう(現在でもミステリアスな映画作家の一人だが)。映画作家としてのキャリアを歩み始める前から3人の中でもっとも自身と映画史の位置づけに意識的だったカラックス。その意志は先日リベラシオン誌に寄稿されたジャン=リュック・ゴダールへの感動的な追悼文にもよく表わされている。なにより最新作『アネット』(2021年)自体が、21世紀を代表する新たな傑作だ。

 ベッソンはセルフプロデュースしたデビュー作が証左しているように、初めからプロデューサー的な志向を持っていたといえる。このことからベッソンがハリウッドに向かったのは必然的なことのように思える。「シネマ・デュ・ルック」が定義するスタイル主義や、三者に共通する代表的な舞台装置「メトロ」を使って、ある意味このムーブメントをもっとも体現していたともいえる『サブウェイ』(1984年)。ベッソンにとってのパーソナルな作品といえる『グラン・ブルー』(1988年)。そして当時の恋人アンヌ・パリローを主演に迎えた『ニキータ』(1990年)で、ベッソンはフランス産ブロックバスター映画の胎芽をつかむ。この作品にフランスを代表する大俳優ジャンヌ・モローが出演していることは象徴的だ。『ニキータ』のヒロインによる二重生活や二面性のアイディアは、パリローが自分の人生を語りたがらなかったことへの疑問からインスピレーションを得たという。裏の顔と表の顔を持つヒロインによる活劇を撮ったベッソンは、現在に至るまでこのテーマから広がっていくバリエーションに取り憑かれているように見える。

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