『ちむどんどん』羽原大介が伝えたかったものは何だったのか 202X年の最終話を終えて

 202X年、沖縄本土復帰から50年を迎えたとき比嘉家がどうなっているか。“朝ドラ”ことNHK連続テレビ小説『ちむどんどん』第25週の最終話は1980年代から一気に時間が進んだ。

 やんばるに生まれた野生児のような暢子(黒島結菜)の半生は、202X年、暢子が実家を増築して作った店・やんばるちむどんどんに飾られた暢子を取材した新聞記事に集約されている。これを読めば半年かけて描かれた彼女の半生がよくわかる。

 最終週は南の島を出て東京で冒険した暢子が故郷に戻って、家族とともに故郷の味を大切に生きていく選択が示された。そのなかで、優子(仲間由紀恵)が遺骨収集活動に参加して探し続けた戦争で生き別れになった家族の行方がわかる。40年前、苛烈な沖縄戦の避難先で優子の姉と居合わせた五郎(草刈正雄)が訊ねて来て形見のジーファー(かんざし)を渡す。

 全125話(半年)のたった1話(15分)で描かれたエピソードは、15分では消化しきれないようななかなかシビアーなもので、五郎は瀕死の優子の姉に水を求められたが、自分たちの飲む分を心配して、水はないと嘘をついた。自身は彼女におにぎりを譲られたにもかかわらず。生きるか死ぬかの瀬戸際のとき、そういう選択をしても無理はないかもしれない。曖昧な言い方になるのは、筆者がそこまでの体験を味わっていないからである。生きとし生けるものは何がしかの犠牲のうえに成り立っている、だから感謝を忘れてはならない、そういう死生観については、第4話の飼っていた豚を食べることですでに描かれていた。つまりドラマはずっとこの考えに貫かれていたわけである。

 拙著『ネットと朝ドラ』の『おかえりモネ』の項で指摘した“生き残った者たちの物語”が『ちむどんどん』にも当てはまる。『ちむどんどん』では沖縄戦を生き延びた者たちのその後なのだ。彼らが結婚して生まれた子供たちが、暢子たちだ。戦争経験の辛さをなかなか子供たちに語ることができなかった優子が、彼らが社会人になったときポツリポツリと語り出す。

 序盤から物言わず佇んでいたまもるちゃん(松原正隆)もまた生き残った者のひとりであったことが最終回で明かされる。賢秀(竜星涼)が「母ちゃんと同じ収容所から一緒にこの村に来て……」と口にするのは、第15週「ウークイの夜」のときに聞いたのだろうか。まもるちゃんが言葉を発することができないのは戦争あるいは収容所体験なのだろうか。そこは明言されない。ただ、暢子のお店のオープンに一番乗りして一言つぶやくだけ。美味しいものを隣人と食べることの尊さをまもるちゃんが一番感じていたのではないだろうか。

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